wish for life


「石田さん、じゃあ今から入れますから」
私は頷いて腕を差し出した。傍らの夫は固唾を飲んで見守っている。
腕にちくりとした痛み。ゆっくりと助産師が薬を注入していく。人工的に、痛み――陣痛を起こすために。

一時間前、風呂に入って、自宅のベッドで助産師の到着を待っていた。腹の中の娘に夫と話しかけながら。
「私たちだけの赤ちゃん」
「名前はもうずっと前にきめてあるからね」
小さな顔や手を想像して、二人で腹を撫でた。返事はなかったけれど、きっとどこかで応えてくれているはずだ。
「あなたも傍にいてね。この子も私もそれを望んでいるわ」
「あぁ、もちろん」
力強い夫の笑みに、思わず泣き笑いになった。
小さな温もりを腹で感じられるのももう最後だ。

薬を打ったという自己暗示だろうか、少し、鈍く痛い気がする。なんとなく生理痛に似ている…これが陣痛なのだろう。
と、携帯電話の音がした。もしもし、と出たのは助産師。短いやり取り中何度か頷いて、電話を切った。内容の予想はついた。
「まだ石田さんは大丈夫だと思うから、ちょっと他のお産に行ってきます。5時間もすれば戻れますから。何かあったら電話をお願いします」
「わかりました」
私も夫も微笑んだ。助産師は慌ただしく出ていき、カーテンを引いた部屋に私と昇流と赤ちゃんの三人きり。
「昇流…手、握ってて」




「水、飲むか?」
昇流の差し出した水を出来るだけ小さな動きで口に含んだ。
痛みは、遅いけれど確実に増してきていて、生理痛みたいーとほざいていた自分が懐かしくなる。
横を向いたり上半身を起こしたり、じっとしていられない。
「昇流、腰の辺りさすって…もらえる?――いたた、もう少し下ぁ…そうそこーっ」
だんだんと激しくなる苦しみように、昇流も安易な言葉がかけられないようだった。
私は掛け時計を睨みながら、いきみ逃しにラマーズを試した。
「ふぅーっ~ヒッひっふーッーヒッ…ヒッフゥゥ…」
型通りも何もない。ただいきみたさを押さえるために断末魔のような呼吸を続けた。
「…昇流っ、赤ちゃんもぅっ…はあ出ようとしてるんだよねっ…?!」
「そうだよ、赤ちゃんに会えるんだ!頑張れ」
腰をさすりながら夫が私と、自分自身に言い聞かせる。
しばらくして、痛みが4分間隔になった頃、助産師が戻ってきた。




「よぅしよし、石田さん、よく頑張ったね。ちょっと診せて」
私は痛さに顔をしかめつつ股を開いた。汗が額から首から流れ落ちる。
「うん、今8センチちょっと開いてるね。もう少しよ」
助産師が励まし、昇流は汗をふいてくれた。
ねぇ、赤ちゃん。私をお母さんにしてくれてありがとう。私、最後までやりとげるからね。
腹にそっと汗ばむ手を置いた。膨らみは下腹に移動している。
「はーっふーっヒーっヒーっ…フー…」
何かが出そうな感覚を感じた瞬間、びしゃっと羊水があふれだした。一気にお産が進む。
「アッ…ん~ンゥ~いたイぃぃ!」
股を切り裂かれるような痛みに身をよじる。絶叫し、昇流の掌をきつくつかんだ。
「頑張れ!」
「赤ちゃんの動きを感じられるわね?石田さん、息を吸って!吐いて!」
確かに感じた。私の腹が赤ちゃんを押し出そうとしている力。思うように吸えない空気を吸って、いきみをかけた。




「ふンんンンー―ッぅぅ~…ぅぐぅぅゎあぁんんぅー~!」
「そう!上手いわ。少し休んで。深呼吸しよう。吸って」
すぅ…ふぅ…すぅ…はぁ……
昇流も辛そうに私を見ながら呼吸する。
「もう次ので頭が出ますからね。陣痛来たら思い切りいきんで」
…痛い!
「あふぅん~~~~~~っ!くッあ""ーーーーっっ!」
痛みの向こうに望むのはただ、“産みたい”。
「ア"ァーぅ~出るよぉぉん"~ッ!!」
玉のような汗を流し、声を枯らしていきんで、いきんで…
「石田さん、ストップ!頭が出たよ!力を抜いて天井見て…」
ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……
心臓がドクドク音をたて、体が火照る。
子宮口を通り抜ける感触に意識を集中させた。
「はい、生まれましたよ。よく、頑張ったね」
小さな娘は私から生まれ落ちた。涙は、こぼれ落ちた。もう、腹に温もりはない。
そしてこの子は。
この子は、泣かない。




『お子さんの心音が取れません』
検診で告知され、知っていたし、覚悟もしたつもりだった。
それでも泣かずにはいられない。
「頑張った、伊織も赤ちゃんもよくやったよ」
真っ赤な目をして、私の頭を昇流が撫でた。彼を見て一層涙が流れる。
産声を聞けないとはこんなにも悲しいことだったのか。あの子の声を聞けない。一度だって聞けない----
「はい。"お母さん"」
ふいに、泣きじゃくる私の胸にやわらかなかたまりがのせられた。見上げると、
「身長48センチ、体重2940グラム...かわいい女の子です」
助産師が哀しそうにしかし微笑んで、私に頷いた。
…本当だ。とても、とてもかわいい。寝息さえ聞こえてきそうな、穏やかな表情。
嗚咽が漏れた。
「ありがとう、『未来』…ありがとうね」
まともに言えなかった。小さな娘の頭を撫でてやりながら、何度も何度も呟いた。



2年後、私は下腹に覚えのあるぬくもりがあることに気が付いた。
それは小さく息づく命。
「未来」を失った悲しみは消えていないけれど、この命こそは、守り育てていきたい。
この世を見ることなく消えてしまった「未来」の分も、世界を目一杯見せてあげたい。
切ないような苦しいような想いを経て新しい命に願うのは...、"生きるために、生きて産まれてほしい"ということだけだ。








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