曽我の雨


「畜生・・・まるでボロ雑巾だなこりゃ・・・」

電車の網棚からびしょ濡れの手荷物を降ろし、ホームの薄汚い椅子にで
紙袋のダメージ具合をチェック。少し蒸れていたけど中身は無事のようだ。

「2番線ン、扉が閉まリます。ご注意くだサい」

ロボキャラの吹き替え声優も顔負けの超高音質アナウンスを持つ電車。
閑散駅に降りたのは、ギラッと光りだそうな鋭い目つきの青年。

「さて、帰ろうか・・・ってしまった、傘が!」

荷物に気を取られ、気付いて時既に遅し。遠くへと小さくなってゆく電車。

「うおおおおおーー」

鬱陶しい梅雨が続いている中、一人の青年が駅から駆け出す。
砲弾のごとく突き進む青年の名は竜児。冷酷な輪郭を持つ20歳未満。
変身しそうな勢いで目指す先は駅から10分のアパート『ハイツ七草』。

「た、ただいま・・・欲しいもの、買って来たぜ・・・」

体中から水を滴らせながら203号室の玄関に倒れこむ竜児青年。
体を張って守りきった物は、紙袋の中にさらに新聞紙で保護された小包。
それはなかなか手に入れられない、果肉ぎっしりの生ライチであった。

「遅いからもう食べたくない。適当に置いてって」
「なっ・・・」

1DKの部屋の中からかえってきた返事は、竜児の予想以上に酷かった。
いくら顔に似合わず温厚な性格をしていても、堪忍袋の糸は――

「・・・す、すいません・・・」

――切れていなかった。いや、切っちゃいけないのであった。なぜなら、

「ほら、さっさと上がって。お風呂用意しておいたから」

相手は竜児の、この世でもっとも大事な、愛する妻だからだ。




「美味いだろう、電車代含めて千円掛かったぜ、それ」
「はぐ、んぐ・・・ま、不味くはないわ」

テーブルに気持ちよくライチの抜け殻の山を作りながら、目もそらずに
風呂上りの竜児と相槌をうつ、ちんまりと驚くほど幼児体型な女性。

「ところで大河、今日の調子はどうだい?」
「恥骨・・・足の付け根がミシミシ言ってた。そろそろかも」

身長差がありすぎで、夫婦というより兄妹にも見えるが、ちゃんと二人は
夫婦の営みをしたことが判断できる揺るがない証拠がある。それは――

「予定日は昨日だもんな、やっぱ怖いか?」

素早く大河の後ろに回りこみ、大きな両手で家族をやさしく囲む竜児。
内訳すると、大切な妻と、大河の中に居候ってる新しい命がこれにあたる。

「べ、別に怖くなんかないから・・・ただ・・・」

思えば駆け落ち敢行の日からはや一年、住み慣れた場所から遠く離れ、
こんなド田舎のボロアパートに身を潜み、たまにはケンカもあるけれど、
お互い(主に竜児だが)相手に一歩譲って、助け合って今日まで歩いてきた。

「大丈夫、何があっても俺が助けてあげるから、な」
「・・・・・・」

大河のお腹に自分の子供が出来たその日から、竜児は一生懸命勉強した。
図書館から妊娠出産関連の教本を何冊も何回も借りて知識を頭に叩き込め、

ツワリのつらい時も、初じめての胎動の時も、大河と喜楽を共にした。

「そうだ、働き先に聞いた話でな、今度三人で・・・大河?」
「・・・・・・」

何かがおかしい。会話を振られても、竜児の呼びかけも無視して黙る大河。
数秒間の沈黙。気まずい停滞。――そして固まった場面が動き出す。

「竜児、お腹痛い」
「は?」
「・・・お腹痛いって言ったのよ。人の話、聞いてる?」




「おう、おはようございます。・・・昨晩は眠れましたか?」
「・・・知ってたくせに、いじわる・・・」

陣痛かと思ったら、大河の腹痛の原因はまさかのライチの食いすぎだった。
襖を開いて、わざとですます体使って話す竜児がダイニングから入ってくる。
エプロンを着用していても人相の悪い顔に、見物客のような笑みが浮かぶ。

「うー・・・お腹痛い、シクシクする」

小柄のせいで自分の体の四分の一以上ありそうな巨大なお腹を抱え込み、
ただこねる子供のように布団の中に丸める大河。見えないが竜児と同い年。

「はいはい。ほれ、お腹がゆるんだときによく効く、特製たまご粥だ」
「あ、ありが、と・・・」

愛の暖かさの前に、この程度の事はいわゆるピリッと来る隠し味に過ぎん。
引っ越した当初は正直、二人で住むには狭いんじゃないかなーと心配したが、
慎ましくも仲良くやっていくうちに、『住めば都』って言葉が実証される。

「今日一日中安静にしといたほうが良いよ、何があったら電話してくれ」
「分かってるわよ・・・さっさといけよ、遅刻する」

やれやれと出かけた後、竜児はハイツ七草の向かいから自宅を見上げる。
木造で築30年の2階建て。風通しもよく環境もそんなに悪くはないけど、
リフォームもできない1DKじゃ、さすがに子供が生まれたら狭くなる。

「もっともっと、お金をためておかないと・・・」

自分以外の存在を背負うのが決めた瞬間から、竜児はもう男の子ではない。
人に養われるではなく、夫として、父親として、命を養わなければならない。

「・・・いってらっしゃい」

腰の辺りまで緩やかな髪を揺らめかし、ベランダから夫の背中を見送る大河。
そろそろお粥を食べないと部屋に戻るが、心なしかお腹が鉛のように重い。

「くうぅ、動いていたら、また・・・後で薬も食べた方が良いかな・・・」

このじわじわと締め付けられるような妙な腹痛のせいで――




「おーい大河、帰ってきたぞ? 調子は良くなったか?」

昼過ぎから雲行きが怪しくなり、梅雨より土砂降りの大雨が町全体を覆う。
記録的な降雨の中、ハイツ七草の203号室の古い玄関ドアが開かれる。
逆光で表情が見えないが、大河が心配で早めに帰ってきた竜児であった。

「・・・つけていないというのは、さては寝込んでいるのだな」

元々北向きで採光の悪い室内だ、太陽のない日は電気付けないと真っ暗。
節約はありがたいが、程々でないと本末転倒だ。カチッとスイッチを入れる。
明るくなってゆく室内に、竜児は思わず言葉に詰まる。現れ出てた光景は、

「り、竜児・・・やっと、帰ってきた・・・」

少女趣味なネグリジェとアンバランスなやつれ顔で、
コーナーに追い詰められたレスラーのようにダイニングの隅っこにもたれている大河だった。

「そんなに下痢が酷かったのか?・・・いや、これは、もしや?」

考えうる最悪の事態に、竜児が凍りつく。全身から冷汗がぞっと噴出する。
二人の目が合う。しっとりどんよりにごった目で、大河の頭がこくっと頷く。

「今すぐ助けを呼んd」
「待って、行かないで・・・ここに、一緒に、居て・・・」
「・・・そう、だったな。わかった、どこへも行かないよ」

出産するときは自宅で。子供が出来た日に交わされた、二人の約束。
病院の壁に囲まれたベッドの上じゃ気味が悪いから嫌だと、一致した意見。
二人だけで迎えてあげよう。だってこの子は、二人の宝物なんだから。

「くそっ、肝心な時に・・・あった、これだ」

ダンスから掘り出したのは市販の聴診器。胎児の心音を確認するには最適だ。
お医者さんごっこみたいに、ネグリジェの裾をたくし上げ、
改めて見てもやはり体に不釣合いなほど大きいお腹に、チェストピースを当て――

「ちべたっ」

冷たい聴診器に一瞬かわいい声を漏らしたが、竜児は気付かなかった。




「っ!・・・竜児、竜児ぃ」
「暴れるな、体力を消耗するだけだ」

側臥位の体勢を取り、タオルで包んだ湯たんぽで腰を暖め、痛みを和らげる。
しかし、それをも身勝手で容赦なく押し通すのが陣痛。母親への道は険し。

「いきみ逃しやってやるから、深呼吸して」
「やだ、そんなの、恥ずかしい・・・ふ、ひあぁ」

返事を待たずに親指で大河のおしりの付け根あたりのツボを強く押す竜児。
気持ちがいいというより、痛みが分散した感じの喘ぎ声が返してくる。

「・・・変態。どこ、触ってんのよ・・・」

見上げる硝子細工のような瞳に、ストップウォッチ片手に真剣な顔になる竜児が映る。
その心に、よこしまな考えは全く持ち合わせていなかった。
・・・のはずだが、急に何かを思い出したかのように、赤面になる。

「ちょっと、仰向けになって、あの・・・開き具合を、その・・・」
「エッチ」

バラ色の頬を真っ赤に染めるも、竜児の言いなりに体の向きを変える。
ガサガサな、指の感触。火照る体温にはひんやりし過ぎて、気持ち悪い。
それも含めて、ほっこりとして、なぜか安心感が生まれる・・・

「・・・っ、あぁっ!」
「うおっ!?」

そんなひと時をお構いなく打ち砕く、今までより一段と強まった陣痛。
ドッキリな不意打ちで驚いた竜児は、反射的にうでをずぼりと離し、

「あっ、あ、あぁ、何かが、出てきちゃう!?」
「こ、これは、もしや・・・」

半拍子遅れて、とろりと大河から生暖かい生命のスープが溢れ出す。
今の反動で、胎児をおおう膜、いわば卵殻にあたる部分が、破れてしまった。
急いで心音を聞く竜児。音の位置は前よりも下・・・胎児が下がっている。

「・・・これから本番ってとこか・・・」




「はいゆっくりと息を吐いて、ふぅーーー」
「ふっ、ぁっ・・・っぅーーー」

縋りつくように竜児にしがみ付くも、堪えきれずに吐息と共に呻きを零す。
集合住宅なので、声とかが外や近所に漏れて迷惑にならないよう、我慢――

「ぅう、あ、痛あぁあーーー!!」

・・・出来なかった。傷口に塩を塗られたような、震える悲鳴が上がる。
一体どれだけの激痛なのか、想像がつかない。竜児が唯一理解してたのは、
自分の背中に爪を立てるほど、大河が苦しがっていることだけだった。

「あ・・・はぁ、はぁ・・・」
「引いたか。さぁ、今のうちに深呼吸して、こいつに酸素を送るんだ」

あれから確認はしていなかったけど、破水もしていたし、陣痛の間隔も、

「っん・・・すーー、はーー、すっ、っぅ、はぁっあ!!」

多くても二呼吸、つまり一分未満になってたし、
恐らく胎児はもう位置についたのだろうと思って、早く妻を楽にさせたい竜児はゴーサインを出した。

「もう良いぞ、息を止めていきむんだ!」
「ぁん、んんんーーーッ!!!」

背筋の力を振り絞り、グググっと大河のお腹が大きく波打って変形する。
中にいる胎児が押し出されている事は、外からも明白に判るぐらいだ。

「ふぁ、すぅ・・・うっ」
「まだまだくるぞ、大きく吸って、止めていきめ!」

この時のために、お風呂で鼻をつまんで鼻までもぐって練習した呼吸法。
今こそ、その成果を証明するとき。この試練を乗り越えたら、三人で・・・
切にそう願いながら歯を食いしばり、大河は体を、腰を、両足を強張る。

「んぐぅっぅあああーーーーー」

絶え間なく窓に打ち付けられている雨の音をかき消す程度の絶叫。
一人の女から、一人の母になる為の、人生最大の通過儀礼である。




「ん、ん、っ、んぁはあぁああーーーー」

無様にうなだれて、もはや息を吸っているのか、それとも吐いているのか、
それすらも判らなくなって来て、ただただ、ただただ、大河は息み続ける。
だが、282日も費やしてじっくりとその体を熟成してきた胎児にとって、
華奢で形容できる域を軽く超えた母体は、あまりにも狭く、通り辛かった。

「竜児ぃ、どう、しよっ!あ、あかちゃんがぁ、んっんんーーー」

やがて正気を保つことさえも出来なくなり、大河は目をむいて悶え狂い、
ずっと堪えていた感情が一気に噴出し、竜児に向けて泣き叫び始める。

「・・・なん、でぇ、出てこないの、よぉおーーーーーー!」
「大河・・・」

胎児が栓になって引っ掛かっている・・・この状況の打開策は知っている。
一言に要約すると『自分の手で胎児の旋回を手助ける』と、簡単なことだ。
しかし、あくまでも机の上の空論。上手くいける保証がないが、竜児は、

「ああ、もう、なるようになれ! ・・・大河、痛いと思うが、ごめん!」

半ばうつろになっていた大河を強引に突き離れ、一思いにズブッと両手を、
月下美人みたいに開いていながらも炎症のように腫れ上がっている所に、

「ぐ・・・ぅぁああああーーーーッ!!」

虎か何かの獣に聞える声にならない咆哮をあげ、びくんと仰け反る大河。
そんな可憐な妻の姿を目にして、竜児は心を痛めながらも、力を入れる。

「・・・! これか!」

指から伝わってくる、堅くもブヨブヨした触感と、微弱にも確かな脈動。
間違いない、こいつが、この温かい塊こそが、二人の愛の結晶・・・

「たすけて、しんじゃう、竜児ぃいいいぃいぃいいいーーーー」
「もう少しだ、今楽にしてあげるからな、二人共!」

しっかりと希望を掴まって、やさしく、大事に、8の字を描くように、
愛する我が子を、幸せに満ちた外の世界へと、両親の元へと、導く――




「・・・ぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ・・・」
「産まれ、た・・・」

大河を貫いていた苦しみの楔は、新生児の産声とともに引き抜かれた。
それと同時に、嘘みたいにこれまでの苦痛も一気に引いてしまう。

「はい、大河、俺達の・・・俺が、取り上げた、娘だ」

へその緒も切らないまま、竜児は懐の中の血でベトベトした赤ちゃんを、
一世一代の大仕事を成し遂げた大河に、そっと抱かせてあげた。

「柔らくて、可愛い・・・良かった、目が竜児に似なくて」
「二言目ですぐそれかよ・・・でも、本当に、よかった・・・」

うまれつきの龍の眼光のせいで、いろいろと誤解されて生きてきた竜児。
だけど、だからこそ、大河と出会えて、こうして結ばれて、愛し合っていた。
こう考えてみたら、むしろ自分の両親に感謝すべきかもしれない。

「あぐっ・・・」
「多分後産だな、こんなもん、へその緒を軽く引っ張れば」

赤ちゃんが産まれてから、役割を終えた胎盤を出すために後産が始まる。
出産の陣痛に比べると痛みはかなり薄く、人によってはほぼ感じない事も。
・・・と、竜児の記憶に刻んでいた教科書にはこう書いていたが・・・

「あ、あれ? これって、既に床に・・・」

うす気味悪い青い紐の繋がった先は、とっくに赤ちゃんと一緒に出ていた。

「うぅ・・・あぁっ! イタイ、痛いよ、竜児・・・?」
「バカな、こんなことはありえn・・・もしかして・・・」

悪い予感が、竜児の頭の中をよぎる。そして案の定、それが的中した。
赤ちゃんのいないお腹からは、心音も胎動も感じれるはずがない、つまり、

「当たりが出たらもう一本かよ・・・冗談じゃねぇぞ・・・」

道理でお腹がデカイわけだ、大河がちっちゃいからそう見えるのではなく、
そもそも中に入っているのは、一人だけじゃない――双子だったのだ!




「落ち着け、俺。一回できた事だ、二回目も絶対できる」

まさかこんなことになるなんて、ちゃんと大河を産院に通わせばよかったと、
思惑が渦巻く中、竜児は産まれてきた一人目を産湯にいれてきれいにした。

「後はへその緒も切って、バスタオルに・・・よし、次は・・・」
「う、うぅぅ・・・っっ!」

つかの間の休息を得た大河だが、再びその人形みたいな顔が苦悶に変わる。
にわか雨が止んだかと思いきゃ、また積乱雲がゴロゴロと迫ってくる。

「第二ラウンドだ、いけるな」
「うん・・・ごめん、気付いてなくて。待ってて、産んであげるから」

お腹を撫でてもう一人の胎児をなだめるようにやさしく呟いた後、
大河は蟹股のままで正面から胡座の竜児にぎゅっと抱きつき、その肩に顔を埋めた。

「来る・・・そんじゃ、いくよ・・・」

一呼吸。沈黙の音が聞えそうなほどの、想像的に、思考的な、静寂。

「ああ、来い。今度も、俺が受け止めるから」

ぴかっと稲光が6坪の和室を照らす。それと同時に、大河は全霊をかけて、
重力が示した下の方向に、体中の筋肉がぶっこわれるほどのいきみをした。

「んーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっっっ!」

グニュっと低いうなりのような音を立て、姉が拓いてくれた道を辿り、
二人目の胎児は一気に肩まで押し出されてきた。ここまで来れば、

「あっ」
「おっと!」

体の表面を包んでいる胎脂と羊水の働きによって、また一つの新しい光が、
大河から放り出され、ふとい命綱を引きずって、竜児の掌に産まれ落ちる。
最初はやや弱弱しくも、すぐにしっかりとした産声を上げてくれた。

「・・・付いてねえ。大河みたいな、ちっこい女の子だ」




「こらこら、そんなせっかちするでないってば」

困りそうな表情で、片方に一人づつ初めての母乳を飲ませている大河。
母親の乳を気持ちよさそうにくわえている双子が、とても幸せそうに見える。

「しかし参ったな・・・こいつらの名前、考え直さないと」

双子姉妹の名前だ、ここは何らかの関連性を持ったほうが、双子らしい。
男と女のどっちかで練り上げたものでは、いささか通用できなくなる。

「ねぇ竜児。――こんなのは、どう?」
「おう、これはいい考えだ! さすがだな、大河」

大河の出した提案は、自分たちの愛称の竜と虎(竜児はそのままだが)の字を、双子の名前にそれぞれ一文字入れることであった。

「涼虎(りょうこ)と、竜香(りゅうか)か。語呂もいいし、文句なしだ」
「じゃ、決まりね」

すっかり母親の顔になった大河に、将来親バカになりそうな父・竜児。
新たな二匹の竜虎を加えて、高須家の物語はまだまだ続く――。

                                おわり



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