HEART


その出来事が偶然だったのか、必然だったのか。
それは分からない。
中川優は大学の帰り道、何も考えずに歩いていた。
商店街、並木道、住宅地…
そして家の近くの小さな踏切にさしかかったとき、ふと小さな違和感を覚えた。
少女が立っている。
白いワンピースに、ふんわりとしたボブヘア。
後ろ姿しかみえないけれど、まだ幼いであろう。
そしてその少女は、ただ立っていた。
踏切は上がっているにもかかわらず、そこに立っている。
電車を見ているのだろうか。考え事をしているのだろうか。それとも…
まさか、それは考えすぎだろう。
優は、自分の考えを振り払った。
そんなことを考えているうちに、カンカンカンと踏切が鳴りだした。
バーがゆっくりと動きだす。
それに引かれるかのように、その少女は動きだした。
一瞬だけ見えた顔には、表情という表情がなかった。
そして優は声を失った。
その顔は忘れようにも忘れられない、しかし、ここにいる訳のない人に生き写しだった。
自然に少女とその人を重ね合わせる。
ぞっとした。
生気のない目がどこを見ているのか分からない。
下を見ているのか。あるいはその下を見透かしているのか。
それはあまりにも残酷な光景だった。
反射的に優の足が動いた。
駄目だ、駄目だ、行っちゃいけない。
お願いだから…

あと一歩というところで、優は少女の手首を握った。
それは気温からは考えられないほど冷たく感じた。
少女はびくりと肩を振るわせて、ゆっくりと振り向く。
目があった。
綺麗な茶色い瞳に、さっきは見えなかった涙が溜まっていた。
ほんの少しの驚きの色も伺えた。
どう見ても、やはりそっくりだ。
優が少女を見つめていると、緩んだ優の手から自分の手をぬき、腹部へと移した。
優は、自分が夢の中にいるんじゃないかと疑った。
2、3度まばたきをして、もう一度視線を「そこ」へ向ける。
「そこ」は、少女の体に不釣り合いなまでに膨らんでいた。
しばらく絶句していたが、徐々に飛んでいた理性が戻ってくる。
この子は真奈じゃない、真奈じゃない…
そう自分に言いきかせるのが精一杯だった。




正気に戻るまで、長い時間がかかった。
気がついた時には、世界は真っ赤に染まっていた。
ふと少女の方を見ると、大きくせり出した腹部を抱きかかえるように腕をからませ、夕日の方を向いて立っていた。
大きく、とても近くにあるようで、とても遠い夕日。
それはまるで、優と真奈の距離感のようだった。
優は少女の方に歩み寄り、「今日は家に帰った方がいいよ」と言おうとして、やめた。
あんなことをしようとしていた少女なんだから、家に帰れるような状態ではないだろうと考えたからだ。
代わりに聞いたのは、「名前は?」だった。
少女はうつむいたまま、何も答えなかった。
話したくないのか、話せないのか。
少しの静寂ののち、優は唐突に言った。
「俺の家、来ない?」
自分でもそんなことを言うつもりはなかったが、口が勝手に動いたのだ。
少女は顔をあげた。
困ったような悲しそうな顔。
そしてもう一度うつむいた。
そりゃそうだ。と、優は思った。
「ゴメン、変な事聞いた。忘れて。」
優は少女の髪をくしゃっと撫でながら、もうあんな事するなよ。と、呟いた。
細く、柔らかい、覚えのある髪質だった。
そして優は立ち上がり、家に帰ろうと少女に背を向ける。
そのとき、後ろに引っ張られた。
振り返ると、少女が優のTシャツのすそを握っていた。
そして、こくりと頷いた。
それだけで十分だった。
優の顔が自然にほころんでゆく。
そして少女の顔を見ていると、自然に言葉が口をついて出てきた。
「真奈って呼んでもいい?」
そしてそのたん、後悔した。
激しい罪悪感が流れだす。
何故こんなことを言ってしまったんだろう。
さっきはこの子は真奈じゃないと自分に言い聞かせていたのに…
矛盾している、と。
しかし少女は照れたようにはにかみながら、もう一度頷いた。
その刹那、罪悪感は消えていった。
その表情は真奈にーー自分の妹に本当によく似ていて。
似ているという表現では伝えきれないほどに。
まるで真奈が乗り移ったかのようだった。
優は、自分の目頭が熱を帯びるのを感じた。
腕で潤んだ瞳をゴシゴシとこすり、少女に目をやり、微笑む。
そして、小さな手を握る。
もう冷たくは感じなかった。
「行こうか、真奈」
2人は、歩きだした。




優のアパートは、その踏切から100mも離れていない所にあった。
壁は所々剥がれ、表札は名前が読めず…と、外見からそのアパートの歴史が伺えるような所だった。
優の部屋は、2階の端で、その部屋はとても綺麗に片付いており、実際より少し広く見えた。
「狭いけど…上がって」
優がそう言うと、真奈は部屋をきょろりと見渡し、靴を脱いだ。
そしておどおどしながら、床に敷いてあった座布団へと腰をおろした。
「何か食べる物作るから、待ってて」
優はそう言い、台所へ向かった。
そして手を動かしながら、さっきまでの出来事を頭で整理していた。
あの女の子は誰なんだろうか、
あのお腹はやはり妊娠なんだろうか、
真奈と何か繋がりがあるのだろうかーー
いつの間にか出来ていたのは、2人分のパスタだった。
優はそれを皿によそって真奈へと持っていく。
「どうぞ」
そう言うと、真奈はよほど空腹だったのか、ものすごい勢いで皿を空にした。
そしてそのままうとうとし始め、座布団にころりと横になる。
優は真奈に、そっとタオルケットをかけた。
そしてふと、その大きな腹部が目に入った。
そっと、そっと、ガラス細工を扱うように優はそこに触れた。
そのとき、そこがドクンと波打つのを確かに感じた。
ああ、ここに居るんだ。と、優は思った。
そしてその横で、いつの間にか眠っていた。

次の日、優が起きたのは昼前だった。
いつ眠ってしまったんだろうと寝ぼけた頭で考える。
次の瞬間、昨日の出来事が優の頭を駆け巡り、一気に眠気が逃げていく。
そして気付いた。
「真奈…?」
真奈がいない。
部屋を見渡すが、この狭い部屋に隠れる場所などない。
まさかと思ってベランダに出る。
だけど真奈の姿はなかった。
そのとき、下に見えるアパートの裏庭に、ちらりと白い何かが動くのが見えた。
よくよく見ると、それは真奈だった。
「よかった…」
優は全身から力の抜けた気がした。
下におりてみると、真奈は雑草だらけの花壇で何かを見ている所だった。
後ろから見ていたから何かは分からない。
そのとき真奈がおもむろに立ち上がり、こちらに向かって歩いてきた。
一瞬優がいたことに驚いたようだが、優を見つけると小走りでこちらに近づいてきた。
よく見ると、真奈は泥だらけだった。
そして優の手の中に、何かを入れた。
見るとそれは、すみれの花だった。
それを見たとき、優の頭が「あのときの事」でいっぱいになった。

「今日お兄ちゃん、誕生日でしょ?
だから私ね、あれ取ってくるよ!」
滝のそばの崖の途中の小さな足場。
真奈は岩に手をかけ、ゆっくりと登ってゆく。
優は危ないからやめろと言ったが、大丈夫と真奈は笑顔で答える。
そして片方の手が足場にかけられ、もう片方の手でそのすみれを摘む。
真奈の顔がほころぶ。
その瞬間ーー

優は真奈を抱きしめた。
白いワンピースの肩の部分が、涙で少し湿る。
そしてかすれた声で、呟いた。
「ありがとう」
真奈は優を無言で抱き返した。




それから優は、毎日のように大学の授業をサボって図書室に閉じこもった。
出産関連の本をかたっぱしから読みあさり、知識をたくわえた。
そして家に帰る時には、真奈がいつもドアを開けて待っていてくれた。
優の姿が見えると、ぱっとあかりが灯ったようにその表情が輝き、優のもとに早足でかけてくる。
そして握っていた花を差し出す。
この花は、毎日違う。
どこにでも咲いているような花だが、真奈からもらう花は、優にはいつも見たこともないほど綺麗で儚く見えた。
その花は、優の部屋の押し入れに眠っていた花瓶を日に日にいっぱいにしてゆく。
色とりどりの花が花瓶にいけられ、それは優の部屋に色彩をもたらした。
そして今日も、いつものように優は図書室にいた。
ふと時計を見ると、午後4時をさしていた。
食事の支度もあるし、そろそろ帰ろうと読んでいた本を鞄に入れた。
いつもと同じ電車に乗り、同じ道を歩き、いつものように帰路を急ぐ。
しかし、いつものようにはいつまでも続かなかった。

アパートの階段を上がるといつもは開いているドアが閉じていた。
優は少し不思議に思い、カツン、カツン、と、わざと大きく足音を鳴らした。
誰もいない廊下に、優の足音が響きわたる。
それでもドアが開く事はなかった。
「ただいま…?」
優がドアを開く。
ギィ…と、嫌な軋む音がする。
「真奈…?」
問いかけてみても、返事がない。
どうしたのだろうか。
寝ている?遊んでいる?それとも…
そのとき、喘ぐようなくぐもった声が部屋の奥から聞こえてきた。
「真奈ッ!」
優は靴を脱ぎ捨て、鞄を放り投げ、走った。
そこには、真奈がいた。
部屋の角にもたれかかり、優の買ってやった大きなうさぎのぬいぐるみを片腕で抱き、もう片方の腕で自分の腹部を抱え、ぐったりとしていた。
「真奈!どうした?
お腹…痛いのか…?」
少しの空白、そしてそののちに真奈はゆっくりと頷いた。
優はいきなりのことで焦り、何をしていのかとあわあわしだす。
すると真奈が優の服をくいっと引っ張った。
「ど、どうした?」
平常心を失いかけ、声がうわずる。
するとそんな優に、真奈が手を差しだした。
その手には、小さな花がのっていた。
真奈が汗ばんだ笑顔を見せ、口をぱくぱくと動かした、
「だ・い・じょ・う・ぶ」
確かにそう見えた。
優は思った。
今から子供を産もうとしている真奈に、自分が励まされてどうするのだ、と。
優は真奈にガッツポーズをしてみせ、その花を花瓶にさした。
そして、真奈の出産は始まった。




「う、ん…はぁ…はぁ…」
あれから、数時間がたった。
「じゃあそろそろまた見るから、足開いて」
始めの内診のとき、真奈は怖さと恥ずかしさでなかなか足を開いてくれなかったが、そろそろ慣れてきたようだ。
そっと下腹部に触れると、鉛のように重く、硬く、張り詰めていた。
そして開き具合を、よく消毒した定規を横に当てながら確かめる。
ちょうど、5cmだった。
「真奈、半分だ、あと半分だからな、頑張れ」
優は真奈の頭に手を置いて、言った。
真奈は、少しの間はにかみ、また眉間に皺をよせた。
しかし優には分かっていた。
子宮口が全開になった時始めて、分娩が始まることを。
それでも優はこまめに真奈の額に浮かぶ汗を拭き、励ました。
いつしか時計は朝の5時を指していた。
朝日が昇り始め、部屋全体がオレンジ色に染まる。
あの時の踏切のようだった。
子宮口は7cmにまで開き、真奈はいきもうとし始めた。
「まだだめだ、あと3cmだから、それまでは苦しいけど我慢だ」
カーゼを冷たい水にくぐらせ、絞り、真奈の額や首もとに当てる。
真奈は必死に我慢し、首をぶんぶんと降り、優にしがみついていきみを耐えた。
しかしどれだけ耐えても、いきみの波は小さな体を埋め尽くし、真奈の本能に火をつける。
「ぁ、ッーー」
ぷつり、と、どこからか音が鳴り、朝刊配達のバイクの音が遠くで聞こえる。
そして、真奈の下に敷いていたタオルケットが、じわりと湿る。
子宮口、8cm弱。
真奈は、破水した。




「あッッん、ー…っ」
しがみつく力がぐっと強まり、真奈が自然といきみだす。
「待って、真奈!
あとちょっとだから、あともう少しだから…!」
優の言葉にも、力がこもる。
歪んだ表情に、滲む涙。
触れる頬の熱。
見ているだけで、自分までも陣痛の痛みにのみこまれてしまいそうで。
「ぁ…あッ!…あぅ″ぅ…」
少し大きさが足りず、桃色に張り詰めた子宮口の奥、見え隠れし始めたのは、真奈とーー優と同じ栗色の毛。
優の頬を、幾筋もの涙が伝う。
「真奈…真奈…!」
どこか優しく、切ないような気持ちが、優の心を満たしていく気がした。
再び定規を当てた時、そこはもう限界まで開いていた。
「真奈、よく聞いて。
俺が合図したら、いきむんだ。
できるだけ長く、強く。
…できるか?」
優はお湯やそのほかの色々な道具を自分の近くにたぐりよせながら、それでも真奈の瞳だけを見て、問う。
真奈は優の瞳を見つめ返し、ゆっくりと頷く。
そして手を差し伸べる。
優はその手を包み込むように握った。




「っはぁ…う、う″ッーーー!!」
優の合図に合わせて、真奈は持っているだけの力を出せるだけ出す。
そして限りなく下がってきた膨らみの下には、栗色の毛。
もどかしく動き、また戻る。
そして、ほんの少し露になってゆく。
そんな真奈に集中しているはずなのに、優には何故か、机の上に置いた花瓶かはらはらと花びらが散ってゆくのを感じた。
そして、子宮口いっぱいに栗色が広がり、優の視界に留まるようになった。
あと少し、あと少し…
優の心に焦りが生まれる。
タオルを手にとり、頭に沿うように当てる。
「あっ…あ、ぁあーッ」
徐々に輪郭が現れてくる。
細い眉毛、長いまつ毛、小さな鼻。
見えてくるにつれて真奈の叫びも大きくなる。
優の全身から、違った種類の汗が滲む。
出てきた顔は、小さい頃の真奈の顔と瓜二つだった。
「真奈、もういきんじゃ駄目だ!
力を抜いて!真奈!」
「う、はぁ…ん…ぁあーーッ……!!」
その瞬間を、優は見ていたが、見えてはいなかった。
手に、熱い重みがずしりと乗っかる。
そして、ふっ、と、その重みが消えた。
生まれたばかりの栗色の赤子が、優の、真奈の目の前で光り輝きながら、浮かんでいる。
そして部屋中が金色に染まる。
花が、真奈が、子供が、飲み込まれてゆく。
優は、ただ見ていることしかできなかった…ーー
一分後か、一時間後か。一年後だったかもしれない。
優は同じように部屋にいた。
そして目の前には、真奈が立っていた。
花も、子供も、消えていた。
それでも、あの頃と同じ笑顔で真奈はいた。
「お兄ちゃん、ただいま」
優は、真奈を抱きしめた。



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