読みやすさを考慮し、改行を入れさせて頂きました。(熊猫)
投稿日 : 2007/05/13 20:19 投稿者 : るるぶ 私は現在21歳。現在妊娠8ヶ月。 本来であれば大学に通い、将来は他国で女性社長を目指していた。しかし、私は大学を中退しなくてはならなくなった。 きっかけは父の経営する会社が不渡りを出し、借金が返済不能になってしまったことだった。 他の女性たちはみな、中学で卒業した後、結婚・出産が義務付けられたが、 幸い私の家庭は裕福で一人っ子だったこともあり、高校や大学1年までは全く苦労することなく育ってきた。 勿論、数千万円する学費は余裕で払っていたと思っていた。 それは大学1年の秋の突然のことだった。ニュースで父の会社が倒産という情報が流れた。 そして、父の会社の経営状態が表沙汰になり、実態は赤字まみれだった。 当然、家や別荘は抵当に入っていて、借金のかたに全てをとられた。 それでもまだ足りなかったらしく、家には毎日のように見知らぬ借金取りが数人現れるようになった。 投稿日 : 2007/05/13 20:28 投稿者 : るるぶ そんなある日、いつもの通り借金取りがやってきた。 たまたま運悪く家にいた私は彼らにより性的暴行を受けた。 それからしばらくの間、ずっと妊娠しないか心配だったが、その心配は現実のものとなった。 今は簡単に中絶ができず、中絶するだけで数百万はかかってしまう。 また、性的暴行などで妊娠した女性に対し、まだ義務教育期間中に出産した場合や母親に病気などの理由ならば、 養子や施設に預かってもらえるが、16歳以上の女性は望まない妊娠であっても簡単に施設などには預かってもらえなくなった。 その代わり、児童生活保護という形で、1人目は月額15万円程、2人からは10万円ずつ支給されることになった。 投稿日 : 2007/05/13 20:36 投稿者 : るるぶ 勿論、私も両親も中絶費用を払う余裕などなく、出産の道しかなかった。 出産費用は全額無料ということもあり、私は泣く泣く、あの出産工場と化した病院へ通院を続けた。 そして安定期を過ぎた頃、丁度臨月の女性の陣痛が始まり、出産を手伝うことを命じられた。 陣痛室から痛がる声がこだましていたが、数時間後、子宮口が開くと分娩室まで歩くのを手伝わされた。 そして、その女性の番号の台へ乗ってもらったが、あまりの陣痛の痛みに暴れ出したため、仕方なく医師の判断で足は固定された。 そして、暴れ、叫び、泣きながらもその女性はそれから6時間後、無事男の子を産み落とした。 私はその姿を見て、物凄く不安になった。 果たして自分はこの痛みと闘えるのか。 また、産まれてくる子供は父親がいない、この子の未来を考えたら果たして産まれることが幸せなのかずっと不安だった。 投稿日 : 2007/05/13 20:45 投稿者 : るるぶ そしていよいよ臨月に入った私は、日々不安の中出産に備えていた。そんなある夜中のことだった。 いよいよ陣痛がはじまったようだ。最初は痛みの間隔も間があり、こらえるのもそれほど辛くはなかった。 しかし、段々、陣痛の間隔は狭まっていく。出産工場に着いた頃にはだいぶ痛みは増してきていた。仕方がないと思い耐える。 しかしこらえるのも辛くなっていた。かつては無痛分娩という方法もあったそうだ。 しかし、出産の義務化により、出産する女性が増え、麻酔を利用する女性が一時期殺到したため、 麻酔が足りなくなり麻酔の値段が高騰し、数百万円もするようになってしまったため、多くの女性は無痛分娩が利用できなくなってしまった。 投稿日 : 2007/05/13 20:53 投稿者 : るるぶ 病院に着き陣痛室に入ってから15時間あまりたった。 段々額から出る汗の量も半端ではなくなる。そして、やたら喉が渇くがあまり水分を大量に摂取することもできず辛い。 子供はだいぶ私のお腹からおりてきているようで、背骨をグイグイと押されている感触がし、背骨が割れそうなくらい痛い。 それでも必死で耐える。疲れて眠い。 しかし、まだまだだ。そして、助産師が私の股間を確認し、分娩台にあがるよう指示される。 引いた番号は3番。比較的前の方だ。 手すりに掴まりながら分娩室までやっとこ歩き、自分が引いた番号3の分娩台の前に着き、 痛くて我慢できないため、恥ずかしいが自分の一番大切なところを大きく広げた。 投稿日 : 2007/05/13 21:00 投稿者 : るるぶ 目の前には医療従事者や他の出産中の女性などが多数いた。 見知らぬ人達の前で足を大きく広げ、自分の一番大事なところを晒すのはとても恥ずかしく、 恥ずかしさのあまり痛くてたまらないが、大粒の涙が溢れ出た。 背骨も股間も砕けそうなくらい痛くてどうしようもないが、女の本能だろう足を広げるのは抵抗があり、必死で閉じようとした。 それを何度か繰り返しているうち、その姿を見かけた医師が、 私の足を固定するように助産師さん達に命じ、私の足は分娩台の横に大きく広げられ固定された。 もう身動きが取れなくなった瞬間、私は泣き出した。 助産師さんからは「早くこの格好から脱出したければ産むしかないのよ。さあ、頑張って」 投稿日 : 2007/05/13 21:09 投稿者 : るるぶ 私は覚悟を決めるしかなかった。 痛くてたまらないが、分娩台のレバーに必死で捕まりいきむ。 「あああああああん、ひいいいいいいいいいいいいいい、痛い、痛い、いたたたたたたたい」 何度かいきむうち、赤ちゃんの頭がだいぶおり、排臨がはじまったようだ。命がけでいきむ。 「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、あああああああああああーん、 ああああああああああああ、ああああああああぁぁぁぁん、いいいいいいいいいいいったーい」 もう体は壊れそうだ。あまりの痛みに私は泣き叫ぶ。 「いったいいたいいたいいたいいいいたいったいいたー、こんなに痛いんなら、お尻を切って赤ちゃん出して」 助産師「何言ってんの。そういうわけにいかないでしょ、あんたお母さんになるのよ。もう少しの辛抱よ」 「もっといきんで」 私「ううううううううううううううううううあああああああああああああ、言い言い言い言い言いいひひひひひひひひひひひひひ」 「赤ちゃんの黒い頭が見えた、もうちょっとだよ」 体はバラバラになりそうだ。泣き声も嗚咽に変わる。 投稿日 : 2007/05/13 21:12 投稿者 : るるぶ 私は覚悟を決めるしかなかった。 痛くてたまらないが、分娩台のレバーに必死で捕まりいきむ。 「あああああああん、ひいいいいいいいいいいいいいい、痛い、痛い、いたたたたたたたい」 何度かいきむうち、赤ちゃんの頭がだいぶおり、排臨がはじまったようだ。間もなく破水し、命がけでいきむ。 「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、あああああああああああーん、 ああああああああああああ、ああああああああぁぁぁぁん、いいいいいいいいいいいったーい」 もう体は壊れそうだ。あまりの痛みに私は泣き叫ぶ。 「いったいいたいいたいいたいいいいたいったいいたー、こんなに痛いんなら、お尻を切って赤ちゃん出して」 助産師「何言ってんの。そういうわけにいかないでしょ、あんたお母さんになるのよ。もう少しの辛抱よ」 「もっといきんで」 私「ううううううううううううううううううあああああああああああああ、言い言い言い言い言いいひひひひひひひひひひひひひ」 「赤ちゃんの黒い頭が見えた、もうちょっとだよ」 体はバラバラになりそうだ。泣き声も嗚咽に変わる。 投稿日 : 2007/05/13 21:28 投稿者 : るるぶ 「うううううううううう、あああああああ、はあはあはあはあ」 やがてプツンという感覚とともに、赤ちゃんの頭がでてきた。股間の裂けるような猛烈な痛みに腰が浮く。 しかし、また陣痛の波は容赦なく私を襲う。 「ああああああん、ああああん、ああん、ああん、ああん」 しばらく経ち最後のいきみで赤ちゃんの体も滑り落ちた。やっと終わった。 産後の処理が終わると、フラフラの体のまま病室まで歩かされた。 そして、赤ちゃんを抱き上げおっぱいをあげた。女の子だった。 数日後退院した私は父の計らいで、借金取り達に見つからないよう隔離された。 1年半程は見つからなかったが、約1年半後、見つかってしまい、再び暴行を受けてしまう。 そしてまた妊娠。10ヵ月後あの出産病院(工場)で産む。 父がようやく借金取りから全ての清算ができたのが、10年近くも経ってからだった。 その間に私は借金返済のため弄ばれ、約10年近くの間に6人の子供を出産し続けた。 勿論、借金取りたちは誰一人として責任はとってくれず、児童生活保護で生計をたてていたが、それも子供が15歳になれば打ち切られる。 子供には私と同じような人生を歩ませたくはないので、4人娘が産まれているが、女の子には全員幸せな結婚生活を望んでいる。 |