義務出産

読みやすさを考慮し、改行を入れさせて頂きました。(熊猫)

投稿日 : 2007/05/01 23:20 投稿者 : るるぶ

私の名前は百奈(ももな)、現在17歳。私のお腹の中には子供がいる。臨月に入る頃だ。
今、私が生活しているこの国ではかつては女性にも色んな自由があった。
女性が国会議員になることは勿論、社長になった女性もたくさんいた。しかし、今この国には自由はない。
あまりにも少子化が加速したため、最終的に政府は女性の社会進出、出産するしないの自由を女性達から奪い取った。
そして新たに作られたのが、16歳以上の女性は全員、出産義務が課せられた。
当然、女性の高校以上の進学はごく一部のみの職業(産婦人科(小児科医、保健師、看護師、助産師、福祉に関する職業)のみとなり、それ以外の女性達は簡単に進学はできなくなった。
私も勿論、その中の一人となり、中学3年の時には進路を決めなければならなかった。私自身も考えた末、出した答えは出産することを選んだ。




投稿日 : 2007/05/01 23:28 投稿者 : るるぶ
そして、中学3年の秋以降、友達はみな、国家が指定した男性と次々と見合い、婚約を進め卒業後はどんどん、結婚をしていった。
しかし、私はなかなか決まらずやっと決まったのが卒業してから半年近くたってからだった。
それから秋になる頃式、入籍を済ませ冬が終わりに近づく頃、妊娠が判明した。




投稿日 : 2007/05/02 21:39 投稿者 : るるぶ
出産に関する法律は変えられ、出産に関しては全額無料、
ただし中絶に関しては以前は比較的安かったが、今は少子化対策により、数百万に跳ね上がった。
また、男子の高校・大学(専門学校)の学費も全額無料、女子は産婦人科医(小児科医)や看護師・助産師・保健師などは無料となったが、
ただし、他の学部やどうしても高校に進学したいものは、数千万円の学費がかかるため、大半の女子は進学をせず、結婚という道を選ばざるを得なくなった。
私自身も決して好きではない相手との結婚は気は乗らないが、両親への経済的負担、これから先、もっと大きくなっていく2人の弟達のことを考えると、贅沢も言えないため結婚をした。




投稿日 : 2007/05/02 21:48 投稿者 : るるぶ
妊娠し、安定期を過ぎると今度は出産の手伝いをしなくてはならなくなった。
一度は産婦人科や出産のできる病院は減ってしまったが、出産する女性が増えたためどんどん病院の数が増えていった。
私が通院している病院も2年前開業したばかりの出産専門の病院だった。
その病院は、緊急の時にも対応ができるようにと、分娩台の間にはしきりやカーテンがなく、赤ちゃんがよく見えるようにと、出産中の女性にはそのままの格好だった。
その分娩台の端から端まで300メートル近くあり、何十台もずらりと並んでいる。まるで、出産工場のようだ。
今回、私が手伝いを命じられたのは、18歳の2度目のお産の人だった。




投稿日 : 2007/05/02 21:56 投稿者 : るるぶ
分娩台に乗せられたばかりの彼女は物凄く苦しんでいた。建物の中では産みの苦しみに耐える女性達の叫び声がこだましている。
よほど苦しいのだろう彼女の目からは大粒の涙が流れ落ち、それでも耐え抜いていた。
他の分娩台ではあまりの痛さに暴れてしまったため、手足を固定された女性もいた。
私はそんな彼女たちを励ましながら、自分も数ヶ月後にはこの苦しみに耐えねばならない現実を見せつけられ、1秒でも早く子供が産まれてくれればと彼女たちを励まし続けるしかできなかった。
間もなく、彼女は第2子を産み落とした。女の子だった。
私自身も、出産までの間、少しでも痛みを和らげるため、教えられた通りの呼吸法を練習して過ごした。




投稿日 : 2007/05/02 22:08 投稿者 : るるぶ
私自身もやがて、臨月を迎えいつ陣痛がはじまってもおかしくない状態になった。
そして、それから10日程経ったある日、とうとう陣痛がきたようだった。
最初は10分感覚の痛みであったが、病院につき陣痛室に入った頃にはだいぶ感覚が短くなったようだ。
痛むお腹をさすりながら、少しずつ呼吸を整えていた。それから数時間後、いよいよ動くのも大変になった頃、助産師さんがきて、
「そろそろ分娩台に乗って下さい」と指示された。
指定された番号をみて愕然とした。一番奥の分娩台であり、300メートル近くある。でも行かなければならない。
痛くてたまらないがゆっくり歩きながら行く。普段ならたったの300メートルがその日に限り、何キロにも感じる。
やっと自分の番号の分娩台に着いた頃には、赤ちゃんはだいぶ降りてきて、分娩台に上ってしばらくいきんだら、頭が出てきた。
どうやら歩いたことで出産が早まったようだ。そして、また少ししてから赤ちゃんの体も滑り降りてきた。男の子だった。
そして、出産後の後処理も全て終わってからも、歩いて病室まで帰らなければならなかった。
とても疲れてフラフラだったが、我慢し病室まで戻り、赤ちゃんにようやくおっぱいをあげることができた。




投稿日 : 2007/05/02 22:19 投稿者 : るるぶ
あれほど、痛くてたまらないのにまた、子供が欲しくなった。
そして数ヵ月後再び私は妊娠する。そして、またあの病院で恥ずかしいが出産した。
第2子は女の子、そしてそれから更に3人の子供の母親になった。全部で5人の子を産んだ。
それまで少子化に悩まされていたが、かなり回復し、出生率3.05にまで回復した。
それからもあの病院は出産する女性達でごった返し、あのとても恥ずかしい分娩台には今でもたくさんの女性が今日も子供を産んでいる。



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