Maid as your lover


「トシちゃん、離して」

私は手を掴まれて、どんどん引っ張られていく。
前を歩いて振り返らないのは、幼馴染のトシちゃん……2歳年上の大蔵トシヤ。その表情は今は、見えない。

「ねえ、やめて……? 手、痛いよ」

普通に歩こうよ、並んで。昔からいつもそうしていたように。
でもそんな願いは聞き入れてもらえない。振りほどけない強い力で、私は歩かされる。

そして私は、着いた場所をぽかんと見上げた。ここ……トシちゃんのお家だよね。
大きなお屋敷で、確か可愛い服のお手伝いさんもいっぱいいて。
……そこでようやくトシちゃんは私を見た。

「今日からお前にはここで働いてもらう」
「……え?」

トシちゃんの厳しい表情。こんな顔、今まで見たことない……。
しかも、働いてもらう、って。
私はまだ中学1年、今日から13歳で……確かにこの年齢から課せられる義務は色々とある。
それでも働くなんてこと、まだまだ先の話だと思ってる。なのに。
思考の追いつかないままに、連れて行かれた部屋に用意してあったのは黒っぽいミニスカートワンピース。
それに白いエプロンには、邪魔にならない程度のフリル。

「これって……」
「メイドとして、澪を雇うことになった。住み込みでだ、澪に拒否権はない」

ミオ、とトシちゃんは私を呼んでくれたけど、……今は安心できる心境じゃなかった。
メイド?
子供の頃の私がここに遊びに来る度に優しく接してくれたみたいな、お手伝いさんのこと? 私が?
一体どうして。

「いいから着替えろ」

そう言い残して、トシちゃんは部屋を出ていった。私は戸惑いを隠せないまま、服を脱いでそれに袖を通す。
……働く、って。学校は? 私のパパやママは?
訳がわからないけど、とにかく急いで着替えを終えて。部屋を出ると、廊下で待っていたトシちゃんに手を掴まれる。
向かった先は私と同じような服の若い女の人達がずらりと30人近く並んだ、広い場所。
その人達の間を抜けると、トシちゃんのお母さんがいた。
相変わらずの、センスある高そうな洋服。
引っ張っていたトシちゃんが手を離す。私は勢いが止まらずに2~3歩進んで立ち止まった。

「母さん。連れてきました」
「ええ」

何回か会ったことがあるはずなのに、値踏みしているかのように見てくるトシちゃんのお母さん。
居心地、正直すっごく悪い。

「何より姿勢。それから髪型も甘いわね。仕事は追い追い覚えなさい。菜々、指導を」

口を開いたかと思ったら、静かに、でも有無を言わせない様子ですぐに踵を返す。
呼ばれた菜々って人は、鋭い返事と共に列の一番端からつかつかと出てきた。
背は私より少し高い、160cmそこそこの。でも姿勢の良さから、もっと高く思える。

「こちらへ」

言って即、背を向けて歩き出す。追いつかなきゃいけない雰囲気に呑まれて、追う。
助けを求めるように振り返ったけど、トシちゃんはもうそこにはいなかった。




基本姿勢はこう。違う、肩を逸らせて」

ぐ、と手で直される。痛。

「ちょ、ちょっと待ってください……私、どうなるんですか?」

両手を前に向けて、私は弱く言った。私には説明を聞く権利、絶対あるはず。

「どうなるも何も」

菜々さん、は溜息交じりにその美人な顔立ちの眉間に皺を寄せた。

「あなたも自ら望んで来たと聞いているけれど? 今日が誕生日で13歳、トシヤ様のお子を産みたいと」
「は!?」
「人の話は最後までお聞きなさい。トシヤ様のお子を産みたいと志願してマダムのお目通りが叶った。
 これから私達と同じようにメイドとして働きながら産む、と……違うの?」

待って、思考がついていかない。
怪訝な顔で見られるのも気にせず、今日あったことを私は思い出す。
澪、誕生日おめでとう。
呼び出されたその時から、トシちゃんの様子は少し変だった。思い詰める、とまではいかないけど。何だか硬い表情。
何も訊かずについて来い。そう言われて、手を強く引っ張られてここまで来て。
何の説明もなくて。

「あなたと同じように、私達もトシヤ様を愛してここで働かせて頂いているの」
「私、と……って?」

トシちゃんのことは、幼馴染で……昔からよく遊んだり、中学に上がってからはまた同じ学校になれたから、廊下でばったり会ったら立ち話をしたり。
確かに、一番近い存在の人はトシちゃんだったかもしれない。
……でも。それ以上の特別な気持ちなんて、お互いに持っていなかったと思う。

「これからもずっと、トシヤ様のお傍にいられたら。その為なら、このお屋敷から出られなくても構わないわ」
「出られない? 菜々さん、出られないの……? どうして?」
「そういう契約でしょう? あなたも。孕んだお子を出産する時だけ唯一、このお屋敷の門を踏み出すことになる」

子供を。
……そう、中学でも。1年生はまだほとんど、いたとしてもお腹の目立つひとはいなかったけど。
2年生以上の大きなお腹の女生徒とは学校の至る所ですれ違った。
『満十三歳以上の女子は、すべからく子をなさなければならない』。
そんな条文がなかった時代がある、と聞いたことはあるけど。信じられない。
誕生日が来て、私もついに子供を産むんだ、とは自然に思った。でも彼氏がいる訳じゃない。恋愛関係にない男女にも、子供はつくれる。
でも私は、周りの13歳の誕生日を迎えた女の子のように他の男子から声を掛けられる前に、トシちゃんに呼び出された。
学校さえ始まらない時間。昔よく待ち合わせた場所に。

「つまり……、私もここから出られない、ここでメイドとして働く、トシちゃんの子供を産む、
 その為に連れて来られたってことでしょうか。しかも、もしかして……」
「ええ、このお屋敷のメイド全員がその為にここにいるわ。トシヤ様ご自身がお連れになったのはあなたが初めてだけれど」

きっとパパもママも承知のことだったんだ。
私が家を出る今朝のママの表情も、今思えば確かに……。
花粉症?って言って流してしまっていたけど。ママのあれはきっと、涙だった。
パパは起きていないと思っていたけど、本当は。……私の顔を見るのが辛かったのかもしれない。
ひとたび子供ができてしまえば、13歳以上の女子は泣くのも喚くのも許されない。
そして、そうなる為の状況、今の私のような状況になっても、それは同じだ。
全て受け入れて、役割の為に生きていく。物心ついた時から、ずっとそう教えられてる。

「……わかりました。メイドのお仕事、教えてください」




一日中慣れないメイド仕事や覚えることに追われて、当てられた個室に辿り着いた私はもう消耗しきっていた。
覚えなきゃならない第一のことは呼び方。
トシちゃんのお母さんは、マダム。トシちゃんは……トシヤ、様。
他のメイドからものすごく何度も何度も直された。つい呼んでしまう、トシちゃん、と。
……晩ご飯の賄いは、すっごく美味しかったけど。ママの料理が食べられなくなるなんて、今朝までは思いもしなかった。
力なくベッドに体を預ける。天井高いな。部屋も私の家で使ってた部屋より広い。たかがメイドの一人の部屋なのに。
体を起こして、傍らに備えられていたネグリジェを掴む。とりあえず着替えてもう寝よう、明日も朝は早い。週一で夜勤もあるって話だった。
結局今日トシちゃんには、あの菜々さんに連れられていった時以来会えてないけど。
会えたら話、しなきゃ。仕事の間を見てだろうけど。今出て行っても、夜勤のメイドに見つかったら面倒くさい。
他のメイド……、気のせいかちょっと冷たいな。昔遊びに来てた頃にいたメイドは見当らなかったけど、もういないのかもしれない。
優しかったのに。残念だ。
お腹が大きいメイドも、いた。トシちゃんとの子供かな。それともトシちゃんのお父さん?
 そういえば、お父さんについては何も説明、なかったな。
着ていた服はハンガーに掛けて吊るしておく。屋敷内のクリーニング室に持っていくのは明日でいいや。
で、明日は明日で新しい方のを着ることになってる。
一人につき4~5着当たってるらしいけど。1着だってそんなに安いものではないはず。
屋敷の大きさといい、メイドの数といい……思ってた以上にトシちゃん家って凄いみたい。
ああ、瞼が重い。
ベッドに潜り込む。柔らかい布団。……眠りに落ちるはずだったその瞬間に、ドアが開いた。

「澪」
「………………? え、トシちゃん?! ……じゃないや、トシヤ、様」

がば、と起きる。一気に目が覚めた。トシちゃんだ。思わず駆け寄る。

「何よ、説明不足だよトシちゃん! 訳わかんなかったよ、一日」
「ごめん、澪」

耳元で囁いて、トシちゃんは私を抱き締めた。初めてそんなこと、された。心臓が。

「と、トシヤ様……」
「ずっと待ってた。澪が13歳になるまで、ずっと」

私の背中を、トシちゃんの手が這う。額にはトシちゃんの、唇。

「ちょ、ちょっと待っ」

トシちゃんは待たない。頬を伝って首筋に、トシちゃんの吐息。顔が熱くなる。
一度唇が離れたから、ちょっとホッとした。話、聞かなきゃ。

「澪が好きだ」
「トシちゃん、――」
「こうするしかなかったんだ、家の方針で……でも、俺にはまだ子供はいない。それだけは確かだ」
「じゃあ……葉子さんは?」

トシちゃんの言葉、信じない訳じゃない。でも現に妊娠してるメイドさんは、いる。

「葉子は、兄の子を妊娠してる」
「お兄さんなんていたの?」
「歳離れてるけどな。俺が子供の頃にはもう自分の邸宅構えてた」
「ほ、他のメイドは? 子供産まなきゃ条例いは……」

条例違反になるじゃない、と続けようとした私は、トシちゃんの次の一言に絶句した。

「葉子以外はまだ13歳未満だ」
「…………?!」

菜々さんも? 友美恵さんも今日子さんも? 他のメイドもみんな?!

「兄の子を妊娠したり産んだメイドは、葉子以外全員兄の邸宅に移ったんだ」
「じゃあ、葉子さんはどうして……」
「今いる他のメイドに希望を持たせるためさ。自分もいつかは、って」
「そんな……」

トシちゃんは、私を抱き締め直した。柔らかく、でもしっかりと。

「条例があるから、あの子達にもいつかは孕ませないといけない。……でも、初めての子供は絶対、澪とじゃなきゃ嫌だった」

切ない声だった。
……恋愛関係になくても子供はつくれるけど、でも。
私も、トシちゃんとじゃなきゃ嫌だな。
トシちゃんのこと、好きになりすぎたら後々辛いかもしれないけど。

「……わかりました。よろしくお願いします」

両手を腰に当てて、ちょっとふんぞり返って言ってやった。
後々辛いかもしれないけど、割り切ろう。今こうして抱き締めてくれてることは嘘じゃない。

「二人っきりの時にはトシちゃんって呼ぶけどいいよね」
「ああ」

頷きついでに、トシちゃんにお姫様だっこをされてしまった。ベッドまでの遠くない距離を、腕だけで運ばれる。
額をくっつけて、ふたりで少し笑う。唇を重ねた。

「ん……」

セックスの仕方。学習指導要領に載ってたけど。どのぐらい役に立つのかな。




私の体に乗るトシちゃんの重みが心地いい。体温も。
ネグリジェの中を、トシちゃんの手がそっと這ってくる。下着の紐が外れた。

「ぁ…………」

駄目だ、声が漏れる。恥ずかしい。だって下着で隠れてた部分、こうやって触れられるの初めてで。
自分でもわかるぐらい、とろとろになっていく。
私に触れる感じで、今度はトシちゃんの硬いものが取り出されたとわかる。
大分前に学校の実習で、服の上からクラスメイトのを触らされたけど。
今、トシちゃんのに触れてみると……その時のとは大きさも、硬さの程度も格段に違う。
そっと握ってみる。上下に擦ってると、もっと硬くなっていく。
トシちゃんの熱い呼吸をこんなに間近で感じる。目を閉じてみる。呼吸の音だけになる。トシちゃんと。私の。
触ってた私の手を、トシちゃんは赤い顔でゆっくり取る。両手を優しく掴んで枕の左右それぞれに置いて。
捲られるネグリジェの裾。私の裸の脚。広げられた。
トシちゃんの……硬い、大きい先端が、私の脚の間を這う。私の呼吸も、整わない。

「っ」

トシちゃんのそれは、私を開けていく。私の中に少しずつ、強く滑り込む。ああ、本当に――硬い。
入っていく音が、体の中を通って聞こえてくる気がした。
私を貫く、感じたことのない、良さ。

「あぁ――――」

深く、私の中が熱い。
熱い。

「澪…………俺…………」

汗が伝う、ほてる頬。トシちゃんの頬。このひとと、私は、今。

「愛してる……――――」

最奥まで。繋がってる。

「私、も」

少しだけ、腰が浮く。私に入り込む部分が浅くなって、え、って言おうとしたらまたすぐに深く。
腰をトシちゃんは動かす。気持ち、良すぎる。
思いっきり締め付けてみたり、脚の開き方や腰の角度を変えてみたりして、一番強くトシちゃんを感じられるところで迎える。
私の中をトシちゃんが、強く擦る。泣きそうなほど、気持ちいい。

「もう、駄目だ……っ」

必死に堪える顔のトシちゃん。腰の動きは緩めない。もっと速くなる。
強く、速い、そのピーク。私の意識も。何もかも。

「――――っ!!!」

その何もかもが、大きく震えた。
どくどく。強く、来る。私の中に来るのが、すごくわかった。トシちゃんの中から。少しの粘りと、高い、熱。
……熱……っ、こんなに熱いものなんだ……。
私は、思わずトシちゃんの髪を撫でていた。

「……トシちゃん……」
「澪ー……」

繋がったままで、でも力を果たして私の体に腕を回すトシちゃん。
汗だくだから、この部屋のシャワーを後で勧めよう。
好きだよ。




結局泊まっていった、自分の部屋へと戻るトシちゃんを見送った、早朝。
腰が妙にだるかったけど、気にならない。それよりも幸せだった。さくさく準備をして、メイドの制服を着る。
うん、昨日よりも着こなせてる。ついでに鏡の中の私の顔は昨日よりも、ちょっといい顔だ。
そう、頬がまだちょっとほてって桃色で。口元も何となく緩く微笑んでしまう。

予感がした。
きっと出来る。子供。赤ちゃん。

だってほら、こんなに私の体の中が今、不思議に熱い。
自分の体に語りかけられてる気さえする。

頑張らなきゃ、メイドの仕事。



「行ってらっしゃいませー!」

メイド全員が、揃って玄関前で横に一列並ぶ。
片手を上げて、トシちゃんが応じる。その制服の後姿を私は、仕事へと急かす菜々さんに突かれるまで見つめていた。
屋敷に戻ると、すぐにまず掃除。今日の私は延々廊下を磨く。

「ねえねえ、菜々さんて私より年下だったんだね?」

モップ片手に私が訊いたら、たまたま同じ掃除区域担当だった菜々さんはそっぽを向いた。

「お仕事中の私語はお慎みなさい」
「そんなこと言わないで、少しは仲良くなりましょ?」
「ですから!」

睨まれた。

「私がどのメイドとも仲良くする必要は何一つないでしょう。ましてや……」

溜息もつかれた。

「あなたと、仲良くするだなんて。真っ平だわ」

そしてまた彼女は手を動かす。ぶつけられた言葉に、私はショックを受けてモップの柄を握り締めた。

「恐らく他のメイドも、あなたに対してそう思うはず」
「どうしてよ……」
「誰だって、トシヤ様の唯一の存在になりたいでしょうから」
「…………」
「だから……誰もあなたの仕事の邪魔はしないけれど、親交を深めることは有り得ないわ。それから」

雑巾を手に、菜々さんは私を真っ直ぐに見据えた。

「このお屋敷に入ったのは私が先、ということをしっかりと覚えていて。軽々しく話しかけられては迷惑」

それを最後に、菜々さんは私にほとんど応じなくなった。交わすのは仕事に関する話だけ。
本当は、みんなの過去……ここに来る前はどうしていたのかとか、ここに来ることになった経緯とかを聞いてみたかった。
トシちゃんとどうして出会ったのか、とかも。
でもそれを知るのはかなり難しいのかも。……トシちゃんも教えてくれないかもしれない。
また今日も、めまぐるしく仕事に追われて時間が過ぎていく。




トシちゃんはそれから毎晩、私の部屋に来ていった。子供を作る行為以外にも、少しは他愛無い話もしていく。
でもやっぱり、他のメイドさんについての話は、初日の年齢の話以外は何もなかった。

……でも。私がお屋敷に来て3週間が過ぎると、毎晩、のペースが週3に落ちた。
思い当たるのはただひとつ。……他のメイドが、13歳の誕生日を迎えたんだ。

トシちゃんには何も訊けない。誰かのところに行ってるの、なんて。
ここのシステムは、もう仕方ないものだと私は理解した。だから訊けない。
とにかく私は。……生理が来ないことをただ祈って。
そして、トシちゃんの願いでもある……私が最初に妊娠する、という大切な使命を実現しなければ。


それから掃除や食事関係や諸々や、雑務の仕事をこなしながら。更に3週間を待っても、生理は来なかった。


お屋敷のメイド用医務室の物品の棚には、常に妊娠検査薬のストックがある。
検査薬が期限切れじゃないかの時々のチェックも仕事の一環だったから、しまわれてる場所には迷わない。
部屋のトイレで使って結果が出るまでの一分は……、今までで一番長く感じた。
目を瞑って、壁時計の秒針の音を数えて。60を数えてから目を開けた眩しさの中で、最初に見たのは「陽性」の表示。

「やった!」

昼休憩がもうすぐ終わる。学校から帰るトシちゃんはいつ着くんだろう。一番最初に報告したいな。
浮き足立つ気持ちを抑えられない。お腹に、赤ちゃんが。
トシちゃんの赤ちゃんが。



「では妊婦メイド用の制服を適宜、部屋に届けておくわ。段階に応じて替えなさい」

特に喜ぶ感じでもなく、マダムは言った。私のお腹の中にいるのはこの人の孫になる存在なのに、かなりぞんざいだ。

「は、はい……」
「悪阻だからと仕事を休まれるのは迷惑だから。特別に調剤させた薬も届けておきます、必ず服用すること」
「わかりました」
「次のあなたの週休に診察を受けなさい。朝10時に医務室に医者を呼んでおくわ」

忙しいのか、マダムは私の報告を聞いてものの2分で立ち去った。何だか……拍子抜け。
そう、屋敷に着いた日に交わした契約書をよくよく読むと、妊娠判明時の報告の方法も載っていた。
トシちゃんに最初に伝えられなかったのは本当に残念で仕方ない。
夜に……来てくれるかな。喜んでくれるかな。


と思っていたのにトシちゃんは、その日の夜も、その後もずっと、私の部屋に現れなかった。


薬は驚くほどよく効いた。薬を飲むきっかけになったあの悪阻の辛さは、もう思い出したくもない。
お腹はまだ目立たない。でも学校で散々勉強した、あの臨月のお腹に、私もいつか……。
けれど。……トシちゃんと一緒に、お腹の赤ちゃんの成長を見守っていけるのだろうか。

「トシちゃん……」

ネグリジェの上から、そっと両手でお腹に触れる。
食事の時にはメイドやトシちゃんに、メイドがみだりに話しかけることは禁じられてる。
廊下で会うこともないし、部屋を私が訪ねていくことももちろんできない。
同じ屋根の下にいるはずなのに、しかも私はトシちゃんの赤ちゃんを妊娠したのに。
どうして前みたいにさえ、会えないんだろう……。
話したいことはいろいろある。マダムへの報告の後の週休にお医者さんに見てもらって、「2ヶ月です」って言ってもらえた。
性別はもちろんまだわからないけど。確かにいるよ、お腹の中に。
ねえトシちゃん、一緒にお腹に触ってよ。
赤ちゃんだってきっと待ってるよ?




少しずつ、お腹が大きくなっていく私が鏡に映る。先々週より先週、先週より今週。
2ヶ月に一度、診察を受けて。そのどれも、順調、って。
いつの間にか、8ヶ月になっていた。
今日からそろそろ、更に一回り、お腹まわりのゆったりした制服を着る。

妊娠が判った日から変わらないのは……トシちゃんにまともに会えないこと。
そして変わったのは、私のお腹の大きさ。それから、……周りのメイド達のお腹の大きさ。
ぽつぽつと誕生日を迎えたメイドが増えてきて、それに伴って妊娠したメイドも増えていた。
……実は、私よりも大きなお腹のメイドもいる。妊娠したのは私より後でも……双子らしい。優越感に満ちた顔で私とすれ違う。
そう、それから葉子さん――私が来た時点で妊娠していたメイドは、私がある程度お腹が目立った時点でこの屋敷からいなくなった。
トシちゃんのお兄さんの屋敷へと移ったんだと思う。
だから私は、赤ちゃんを産む日のメイドがどう運ばれていくのかをまだ知らない。

時々役所からという人達が視察に来ては、マダムに感心し、トシちゃんを褒めちぎって帰っていく。
その時はメイドは同じ部屋に集められて……役人達はお腹の目立つ妊婦メイドを特にじっくりと観察していった。私のことも。
そしてそっとマダムに言うのだ。トシヤさんの方の奨励金は……何とか、って。あんまりしっかり聞こえてこなかったけど。
お兄さん、とか、別口座、とかって聞こえた程度。意味はよくわからない。

あと2ヶ月で、私は臨月。
久し振りに、屋敷の門の外の世界に出られる。
もちろん出産日はもう決まっている。自然分娩でも、「予定」なんて言葉はつかない。出産日。
いつからか、産む日をコントロールできるようになったという。出産に関する歴史は驚くことばかりだ。「予定日」だなんて。
科学は確実に進歩して、出産の制度が安全極まりないものになっていて。私はその時代に産める。
当たり前のように思っていたけど、よく考えれば幸せなことだ。


「菜々」

マダムが、窓ガラスを磨いていた菜々さんを呼ぶ。
菜々さんも制服が変わり、妊婦用になっていた。まだお腹はそれほど目立たない。判ってすぐなんだろう、ごく初期の制服。
ちょうどテーブルを磨き終えた私は、菜々さんから窓用磨き布を受け取って代わる。

「はい」
「あなた、トシヤの部屋に行ったそうね」
「……っ」

目の前で直立する菜々さんを一瞥して、マダムが問う。行っちゃったんだ、菜々さん……。

「出過ぎた真似は今後一切しないように。臨月を迎えずに門から放り出されたくなければ」
「申し訳ございません」

菜々さんが唇を噛み締める様子を、窓を磨きながらそっと盗み見た。
意外だった。菜々さんの表情もそうだし、トシヤの部屋に行っちゃったってことも。
常に、規律を守ってこそ、みたいな態度の菜々さんが。
マダムが立ち去って、足音も聞こえなくなっても、菜々さんはまだそこに立っていた。

「おーい、大丈夫?」

声を掛けると、はっと顔を向けてくる。まずいところを見られた、って表情だ。

「……多分、トシちゃ……トシヤ様、ずっと会いに来ないと思うよ。妊娠したメイド誰にも」
「そんなの、判らないでしょう……?!」

ちょっと気圧された。菜々さんが感情的になるところなんて初めて見る。

「でも私も、マダムに妊娠報告して以降全くよ?」

慣れちゃったけど。

「あなたにまで……?」

窓ガラスの気になるところに息を吐いて曇らせて、布で磨き取る。
不安、なんだと思う。菜々さん。私も妊娠が判って、暫くは諦めるなんてできなかった。会いたかった。
当然会えるものだと、思っていた。

「ここ……どういうとこなのか、未だに私にもわかんないけど。割り切らなきゃ、いけないのかも」

私の言葉に同意してるのか、お腹の赤ちゃんが少し動く。ぐる、と。
ああ、愛しいなあ。
あの日には、間違いなく愛してくれたトシちゃん。そして出来た、お腹の中の。
この子が私の中にいてくれるだけで、もう感謝だけだ。そこに恨む気持ちは、驚くほど全くない。
トシちゃんを恨むなんて。会えなくても。寂しくても、それでも。うん。

「多分何があっても、菜々さんの赤ちゃんは菜々さんの味方。そう思っとこうよ」
「私の……」

まだほとんど膨らんでもいないお腹に、菜々さんはそっと手を当てた。

「さ、続きしよ」
「はい、……澪さん」

あれ。初めて名前呼ばれた、菜々さんに。ちょっと嬉しくて笑ったら、菜々さんも微笑んだ。華やかな笑顔で。




臨月に入った私に、また順調だとお医者さんは言った。

あとは出産日に向けての準備と、仕事の調整……は、人手もそれなりだから心配要らないかな。
……でも、産んでその後はどうなるんだろう。屋敷を追い出されるのか、まだここで働いて……次の子供を、産むのか。
次の、子供。
トシちゃんは、どんな顔して会いに来るのか……想像つかない。
出産日は、2週間後。


大きな、大きなお腹は流石に重いけど。仕事は待ってはくれない。
出産日は3日後に迫っていたけど、物干しスペースの大量の洗濯物を私は端から取り込んでワゴンに乗せていた。
降り始めた小雨に洗濯物を濡れさせるわけにはいかないから。……でも予報では快晴のはずだったのに、どうしてだろう。
気象予報が外れるなんて、人生初ぐらいの勢いだ。
ようやく取り込み終わって、曇り空を見上げる。天気雨、って訳でもないのか。
急いでワゴンを押す。運び入れて屋敷内で一息つくと、本格的に雨が降り出した。
予報の外れ方に、屋敷内のメイドもざわめいている。予報が外れているとなると、仕事の段取りも変わるから。
月一回は催される広大な敷地内でのマダムとトシちゃんの外の食事も、この分だと今日は中止かもしれない。打ち合わせしなきゃ。
とりあえず、まずはワゴンを――

「――っ?」

ぐ、とお腹の、中身全体が一度縮んだような気がした。ワゴンを、動かそうと力を腕に込めた瞬間に。
……まさか。気のせいだよね。首を振って私は、改めてワゴンを押した。今度はちゃんと動き出して、洗濯物をクリーニング室に運ぶ。

…………。

滲む汗。どうして。
クリーニング室に着くと、ワゴンを置いて。とりあえず移動する。ええと、とりあえず……自室。
お腹の……多分子宮の。収縮が、治まらない。どうして。どうして痛いの、まだ出産日じゃないのに。
壁に凭れながらも、必死で足を進める。
……そう、出産日じゃない。ということはこれは、陣痛じゃ、ない……?
でも駄目だ、歩けないほどの痛みさえ来た。

「っ、ぁ、――ッ!」

お腹を押さえて、しばらくうずくまる。
雷が、遠くで鳴った音がした。




一歩一歩、かなり必死で歩いて来て、部屋にようやく辿り着いた。
痛い。痛い、誰か来て。助けて。
外の風の、雨の音も酷さを増していく。

「ぁぁっ……!」

倒れこむようにベッドに載って。絞られるような痛みを、スプリングがほんの僅かにだけ和らげる。
枕もとの内線電話に、手を伸ばすのさえ辛い。
あと。3日後。の、はずなのに。……出産日は正確。その日以外にはない。はず。カレンダーを見間違えたりも、してない。
陣痛さえ出産日に始まる。そのはず、だったのに。
指が、受話器に届いた。体の芯から、痛みに襲われてる。苦しい、よ……!

『澪さん?』

今日子さんの声だ。受話器を上げればすぐ、メイド待機部屋に繋がる。どの部屋からかは向こうに表示される。助かった。

「今日子、さん――――」

助けて、……助けて。言いたいのに、痛いせいで声が、それ以上出せない。

『すぐに行くわ』

察知したのか、深刻な声を返してくれる。通話が切れても、私は受話器を強く握りしめていた。
足音が着いたのは、20秒後。
ドアがノックだけされて、すぐ開かれる。元々鍵はない。

「澪さん?! 澪さん、陣痛なの……!?」

今日子さんも膨らんだお腹を抱えている。今何ヶ月だったか……走らせてしまって、申し訳ない気持ちになる。
私の様子を見て、息を呑んだのがわかった。メイドみんなに、3日後が出産日なのは知らせてあったのに。

「い、たい……っ、」

しかも弱まらない。段々増していくのを、鎮める術を知らない。

「待って、今お医者さ――」

今日子さんが言葉を止めた。何かに気付いたみたいで、眉間に皺を寄せてる。
嫌な予感がした。




「……、澪さん、落ち着いて聞いて。今、お屋敷からの通信関係が一切……出来ないの。酷い天候で……」

外への電話も、携帯電話も、メールも。テレビやラジオさえ。

「っ、さっき……の……雷、……?」
「ええ、打たれた場所にはこの辺りの送信アンテナだとかが全部まとめて建っていたのに、壊滅って」

かなりの郊外に、この屋敷はある。……まさか、出ることも?

「お車で、マダムとトシヤさまがお出掛けになってまだ戻られていないわ。……木も風に煽られて、道路が塞がれていれば……」
「――――ああぁッ!!」
「!」

私の不安がお腹に伝わりでもしたのか、痛みがまた私を襲う。酷い痛さで、堪えきれずに声を上げてしまった。

「今、みんなお屋敷の暴風雨対策に急遽追われていて……そちらも人手が足りないの。困ったわ……」

これが陣痛じゃないって、祈るしかない。

「ごめん……なさ……い、」

だって出産日は。まだ先の、はずだから。それを信じて。

「わた、し……対策……には行け、……ないけ……ど、ぁぁっ……!! 今日、子、さんは……行って、来て……」
「でも……!」
「きっ、と、まだよ……大、丈夫……、っっ!!」

大丈夫な顔は、できてなかったと思うけど。無理矢理微笑んで見せただけだけど。でも。
私が我慢すれば。

「さあ、は、やく、……ね?」
「…………」

今日子さんは迷ってる。
でも私とほとんど変わらない歳の彼女も、ずっと習ってきてるはず。今の時代、出産日以外に陣痛は起こり得ないと。

「……、わかったわ。でも何かあったら、すぐに呼んで」

私は頷いた。状況がわかっただけで十分。あとは、この痛みが治まってくれさえすれば……。
でも今日子さんが閉めた扉の音を合図にまた強まる子宮の途方もない収縮に、私は制服のお腹を両腕で抱えて奥歯を食いしばる。
我慢、しなきゃ。……我慢、

「あぁぁぁっ!!!」

痛いっ、痛い――――!! 治まるどころか酷くなってく。呼吸のタイミングもわかんなくなってる。
習った通りの、呼吸法を意識的に試す。これがもし陣痛じゃなくても、もうそれ以外にどうしようもない。

「ん……、はぁ、はぁ、ふ――――、ふ――――――ッ、ああぁぁッ!!!」

張って、硬くなってるお腹。――赤ちゃん……、産まれて来たい、の?
心で問いかけて、すぐに赤ちゃんは返事をくれる。動きで、痛みで、返事を。

「あぁぁぁッッ!!!」

……っ!!、……そう……これが陣痛なら、もう仕方ないね……。
既に疲労しきった体中が、それでも一層の痛みを発する。
メイドの制服のスカートを何とか捲り上げて、体勢を変えるのも辛い中で、下着を外した。
……医者の決めた出産日より、信じるものは最後は自分の体だ。自分の、赤ちゃんだ。
呼吸法を必死に続けて、陣痛、の切れ目を待つ。
教科書通りにはいかないのかもしれない。もしかしたら切れ目なんてなくて、このまま……かもしれない。
全部……受け入れようと今、決めた。
この子を産むのは私しかいない。

「――ぁぁあああっ……!!!」

教科書なんかより。科学なんかよりも。自分の、感覚。




声を、上げながら私は待つ。
仰向けで、脚は曲げて広げて。お腹は、しっかり抱えてしまいながらも、さすってる。
痛い。ああ、でも、段々わかってきた。痛みの満ち干きの、リズム。
どのみち楽にはならないけど、気分はそれでかなり違う。
ずっとお腹を腕で包んでると、体側だけが接してるんじゃないから、赤ちゃんの動きも何となくわかりやすくなる。
多分今は頭が下になってる。腰が強張る、……広げようとしてる。きっと。

「ぅっっ、…………ッ――――!!」

脚の開け方を変えてみる。ひとつひとつが、ほんと辛さを伴うけど。赤ちゃんが少しでも、楽になるように。
楽に、出て来られるように。

「はぁぁっ…………ッ…………ぁあ――――――!」

挟まってる、って感じたのは、しばらくしてからだった。
外にはまだ、出てないかもしれない。でも私の脚の間の、その奥には。いる。大きくて大切な、赤ちゃんが。
陣痛の波に力を、乗せる。呼吸も乗せる。

「ん―――――ン………………っ、ぁああッ………………!!!」

赤ちゃんが。外の方向へと、少し進んだ気がした。でもそれは一瞬で。また私の中を僅かに、戻る。
でもその動きが。嬉しい。もっと、……もっと。
赤ちゃんの挟まってる分、ほんっとに痛いけど、でももっと。
私は大丈夫。ママは大丈夫だよ、赤ちゃん?

「ぁぁああッ、ん――――――――――ッ」

短い呼吸、をいっぱいして。

「ン――――――――――――――っ!!!!!!!!!!」

痛い、来る、赤ちゃん来る――――!!

「あああ、ッ、んん―――――――…………!!!!」

もっと強く、私の、そこに挟まった気がした。
と一緒にじゃっと溢れて零れるのは、この熱い水は。

「っ、っ―――――――…………!!!!!!」

またする。短く。吸って吐く、息。ひたすら。
頭出てる、絶対今、頭。思って手を。伸ばした。いる。
ああ、いる……!

「ッ、ッ、ッ、ッ、…………――――――!!!!!」

悲鳴に、近い呼吸だった。
一瞬、何がどうなったのかわからない時間が、あった。
すっごく大きな感じだった。私の脚の間は、痛くても、するりと赤ちゃんを通した。
そして、すっと痛いのが治まる。あるのは陣痛の少しの余韻だけ。

「…………」

なかば呆然と、体を起こして。
私は脚の間の、ベッドに広がるその羊水と一緒の、その小さくて大きな存在を確かめた。

「産まれ……た……」

抱き上げる。制服が汚れようが構わない。私の腕の中で、赤ちゃんは……一声泣いた。
そしてたくさん、思いっきり泣き出す。
産まれてくれた。抱いたままで私は、嬉しくて涙が出た。
ああ、産まれてくれたー……!




雨は3日後まで容赦なく降り続き、強風もずっと屋敷を震わせた。でも、通信関係も更に2日後には回復して。
ようやく通じた道で屋敷に帰ったトシちゃんとマダムが見たのは、綺麗に湯で洗われ、ふわふわと眠る生後5日目の赤ちゃんだった。
名前は、これから付けられる。
私はあと1週間だけは休むことができる。本当はもう働けるぐらいには復活してるけど、ここぞとばかりに羽を伸ばそうと決めていた。



トシちゃんが帰宅した日の晩、あれから布団を替えたベッドに潜り込みかけたネグリジェ姿の私は、ノックの音を聞く。

きっとこれからそのドアが開いて。
……そうしたら、何て言おう。

馬鹿、ぐらいは言ってもいいよね。あなたの言い訳も聞いてあげる。

ありがとうって言われたら、嬉しくて少し泣くかもしれない。

ごめん、って言われたら……いろいろと忠告してあげよう。



まずは。トシちゃん、メイドはみんなあなたの恋人なんだよ……って。



                    -完-




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