Hello, my little heart.


冗談じゃない、とアヤカは何度目かの溜息を盛大に吐き出した。
生い茂った草木に行く手を遮られ、シャツや身体の汚れに目をやる気にもなれない。
肩まである髪を邪魔そうに振って、乾きかけのグロスが天を仰いだ。

「ああもうっ!だから嫌だって言ったのよ、こんな山奥で現地集合なんて!」

以前に二回、この山の中腹にあるロッジには行った事があった。
それでも、一回目は恋人と、二回目は友達と一緒だったアヤカにとって、
自分が方向音痴だったことを思い出すには些か時間が足りなかったのだ。
正規の山道をそれたアヤカは、戻ろうとすればするほど迷い込む、
見事なほどの悪循環にはまり身動きが取れなくなっていた。
つのる苛立ちが自分へのものか誘った友人へのものか定かではない。
アヤカはペットボトルの蓋をひねると、ぬるくなった中身を豪快に流し込んだ。

「わ……ッ」

途端、ざっと音を立てて生温い風が木々を揺らした。
突然の風に慌ててアヤカは身をかがめ、飛んでくる木の葉を厄介そうに払う。

「……何なのよ……」

自分の運の悪さを改めて呪い、立ち上がろうとしたその時だった。
ふと、顔を上げたそこに映ったのは――人影。
白いワンピースをなびかせ、驚いたような表情でアヤカを真正面から見つめる、
黒髪の可愛らしい少女だった。
(人……こんなところに……)

『あっ、あなた!私が見えるの!?』

「……は?」

少女はアヤカがそこに「いる」事を確信して、
まるで鈴のように軽く涼やかな声でそう叫んだ。

「いや、見えるも何も……」

何事かと、アヤカが返しかけると――ふと「それ」が目に入った。

目の前に佇むその少女の足元は、
薄っすらとその向こう側が透けて見えている。


季節は夏。

木々生い茂る山縁に、アヤカの絶叫が響いた。




『ごめんなさい……驚かせちゃって、私ったら……』

少女はしゅんとして、ふわりと柔らかな黒髪で両頬を隠した。
アヤカは簡易ベッドに深々と腰を下ろし、乱れてしまった髪を手早くまとめながらそんな少女を見やる。

「まぁ、良いけどね。休憩所まで案内してもらったんだし……」
『悪気は無かったんだけど、つい……自分でも時々忘れちゃうの。自分は生きてないってこと』
「気持ちは分からなくも無いけどねー。っていうかさ、あんたそこに浮いてんのやめてくれない?
せめて椅子に座るとか……あぁ座れないか、ごめん。
どうにか同じ視線の高さとかにならないかな。話するのにさすがにちょっと怖い」
『あ、あっ、ごめんなさい……!』

あわあわと少女が周りを見回し、ひとまず壁際に置かれた椅子に「座る」。
もっとも、アヤカの視線の高さに合わせる程度の気休めではあったが、
アヤカはまぁ良いかと改めて少女に向き直った。

「私はアヤカ。あんたは?名前くらいあるんでしょ?」
『ユイって言います。あの、……アヤカさん』
「堅苦しいからアヤカで良いわよ。私もユイって呼ぶけど、良いよね?」
『ん、うん。じゃぁ……アヤカ……なんかちょっと照れくさい。人の名前なんか、もう随分呼んでないから』

髪と同じ黒い瞳に、ユイはアヤカをまっすぐ映す。
それはどこか嬉しそうで、まるで吸い込まれてしまいそうな、澄んだ色。
アヤカはこのまま目の前の幽霊に乗っ取られやしないかと一瞬の不安を感じたが、
白く細い手を膝の上で握り締めるユイの姿を見れば、
そんな戸惑いも疑いも、さらりと頭から抜けてしまうのだった。

「――で、本題に入るけどさ。あんたを成仏させるのに、私は何をすれば良いの?
 助けてもらったんだから、まぁそれなりに出来る事は協力してあげる」
『ありがとう、嬉しい。ごめんね、巻き込んじゃって』
「良いって。あんた一人こんな山に彷徨ってるなんて、知った以上何もしないわけにいかないよ。
 夢身が悪くなっちゃうかもしれない」

苦笑いしてみせるアヤカに、ユイはほんのり頬を染めて、
それから白い両手を差し出して見せた。
見てて、と小さく呟くと、その両手の中に真っ白な光がぼんやりと現れる。
綺麗な球体をした光を手の中に収めると、ユイはそれを大切そうに胸元に抱き寄せた。

「なに……それ?」
『私の魂の欠片。結構……綺麗でしょ?』
「へえ……」
『でも見て、この……真ん中のところ。少しだけくすんでるの』

アヤカが慎重にユイの手の中を覗き込むと、
確かに純白のはずの光の、ちょうど中心に、ぼやけたような褐色が混じり入っている。
それを見つめるユイの目が、ほんの少し寂しそうになる。




人が死ぬと、魂は時間をかけて少しずつ浄化されて、ある一定の時間で「あの世」に返されるの。
その時間は人それぞれなんだけど、重い罪を償わなかったり、強い未練があったりすると、
その時間はなかなか終わりが来ない』

ユイの魂はその手の中でちらちらと白い光の粒を零し、床を静かに染めていく。
アヤカが見惚れている目の前で、それはまるで限りない砂時計の砂が流れていくように。

『私は……強すぎる未練を残したせいで、ずっとここを彷徨っているの』
「……未練」
『アヤカ。私……』

こく、とユイの喉が静かに鳴る。
一度飲み込んだ何かを胸の中でそっと繰り返し、ユイの唇はまた躊躇いがちに開く。

『私、死んだ時に妊娠していたの。
 事故にあった時――一番最後に思ったのよ。私の赤ちゃんはどうなるのかしら、って』
「ユイ……」
『大好きな人の子供だったの。生んであげられなかった事を本当に悔やんだわ。
 私の命を引き換えにして、どうしてこの子を助けてあげられなかったんだろう……。
 そうじゃないならせめて一度でも、この子を腕に抱きたかったの』

澄んだユイの瞳に睫毛が薄い影を落とす。
胸に抱いた魂から零れ落ちるのは、アヤカの目にはまるで涙のように見えた。
唇を噛み締め、ユイは震える両手をアヤカの前に差し出した。

不意のその行動に、アヤカが小さく目を見開く。

『アヤカ、お願い。私を助けて。
 未練が消えれば、私はここからさよならできるの』
「た、助けるったって……だから私に何をしろって」
『私の手に、赤ちゃんを抱かせて……』

その言葉の意味を理解するには、あまりに状況は複雑すぎた。
アヤカは懸命にユイの言葉の含みを理解しようとするが、
非現実的な状況にいることと、ユイの悲しそうな表情に押されて頭が回らない。

『ねえ、アヤカ。
 私の代わりに、この子を生んで欲しいの』


ユイは涙をためた瞳を開き、そう懇願した。





「……………………え?」



たっぷりの時間を要し、アヤカが眉間に皺を寄せる。
怪訝そうな目は、目の前に差し出された真っ白な魂を一層異な物に捉えた。

「何て……?」
『アヤカがこの子を宿して生んでくれたら、私はその子を連れてあの世に行くわ。
 お願い、身体の無い私にはこの子を「この世」に導く事はできない。
 魂のままじゃなく、生まれ出た子供としての姿で抱きたかった……それが私の未練なの。
 もう何年も考えて試したけれど、もう私に残った道はこれしかなかった。
 お願い……力を貸して』

「力を貸して……ったって……」


あまりに意外なその「お願い」に、アヤカは暫し呆然とその場に座り込んでいた。




立て付けの悪い窓の外を、風が抜けていったのが分かった。
無人の休憩所には尚一層、その音が強く響き渡る。
アヤカは明るい色の髪を何度か振って、どうにか言葉を選び吐き出した。

「か、考えてもみてよ。私19だよ?そんな、子供を生むとか経験どころか知識のひとつだって!
 高校の頃の保健の成績だってろくな点数取った事無いんだから!
 それに、こんなところで一体何をどうしたら……あんたに……」

もやもやとくすぶる心地を、ぎゅっと閉じた瞼の裏に隠す。
――その先の言葉が、出てこない。

たった今「自分はあんたのために何をしたら良い」と尋ねたばかりだ。
それをこんなに簡単に裏返してしまうのはあまりに勝手のような気がしてきたのだ。
見ず知らずの、ましてやこんなにも非現実的な存在の相手。
自分を一緒にあの世に連れて行こうという魂胆でない証拠はどこにも無いし、そもそもこれが現実だという保障も無い。
それでも、ユイの表情に嘘偽りやそれ以上のものは何ひとつ感じられなかったのは紛れも無い事実。

アヤカは、握り締めた膝上の両手に、ぎゅっと力を込めた。


「……分かったわよ。
 ユイの言うとおり、協力する」
『アヤカ……!!』
「その代わり、ちゃんと始末はつけてよね!最後まで!」
『うん、うん!ありがとうアヤカ!!』

ユイは音も無く(それは当然のことなのだが)駆け寄り、アヤカを両腕で強く強く抱きしめた。
無論アヤカにはその感触が分からない。
けれど耳元で嬉しそうに笑うユイを感じる事だけは出来る。
これでユイが悲しい呪縛から放たれるなら、自分の人生の一部を貸すのも悪い気分にはならないだろう。
アヤカは、そこに「あるはずの」綺麗なユイの黒髪を、やんわりと梳いた。









難しい事じゃないから、とユイは呟いた。

「魂」をアヤカの前に差し出し、薄い瞼をそっと閉じる。
同じようにしてアヤカも瞼をおろした。



ほんの一瞬、ぱちんと何かが弾けるような音がして――アヤカは下腹部にかすかな熱を感じた。




ユイは、どんな気持ちで今まで彷徨い続けたのだろう。
新しい世界へ旅立ちたい気持ちと、この世で叶えられなかった未練との狭間で葛藤し続けて。

それはきっと、授業中に携帯のメールを打ち続けて、
帰りにスタバで新作を飲みながら下らない話に時間を費やすような自分には
きっと知りえないものなのだとアヤカは漠然と思った。







目を開けた次の瞬間、アヤカが発した最初の一言は「うぉっ」だった。
――無理は無い。
熱に誘われて下ろした視界に入ったのは、大きく張り詰めた自分の腹部。
キャミソールをまくりあげたそこに手を触れると、思っていたよりずっと硬く、熱を持っていた。

『……アヤカ?』

心配そうにユイがアヤカを覗き込む。
アヤカは暫し呆然と自分の身に起こった事を反芻し、「ええと…」と自分を落ち着かせようと呟いた。

『だ、大丈夫?』
「……いや、うん……大丈夫」

とりあえず驚いてるだけ、と付け加えると、ユイは困ったような顔で小首を傾げた。
そこに感じる熱と重みがあまりにも現実味を帯びていて、アヤカは逆に夢うつつのような気さえしてきた。
――こうなった以上は夢でも現実でも関係ないのだが。

「ひとつ聞きたいんだけど」
『うん?』
「これはさぁ……産んだら元に戻るよね?」
『それは……まぁ、多分』
「多分ってあんた…………」
『え、あ、あの、……大丈夫だと思うよ……?妊娠線も無い綺麗なお腹だし、ほら、アヤカ元々細いし胸だって』
「どういうフォローよそれ……」
『う……』

言葉に詰まるユイに、アヤカは一抹の不安を覚えながらも、
どうか自分の体型が事の後無事に戻りますようにと切実に願った。
「良いけどね……これくらいならまだ予想の範囲内よ……」
言い聞かせたアヤカに、ユイはおずおずと近付き手を伸ばした。

ふわりと触れた指先は、穏やかにアヤカの腹部を撫でる。

愛おしそうな目は、この子を実際に抱いていた頃の自分を重ねているのだろうか。
自分の中に抱きしめていた子が、今目の前で形になる。
それがユイにとってどれだけの事なのか、アヤカに分かるはほんの一欠けらだけ。
それでも、アヤカの目に母親の表情をするユイはとても綺麗に映った。

「さーて、じゃあこれからどうしようか」
『うん……』
「天気も悪いし、まぁどうせ携帯も圏外だから誰かに邪魔される事も無いだろうし。
 っていうか邪魔されようものなら私どう反応したら良いやら……」



言いかけたアヤカの表情が、一瞬強張る。

「…………ちょ、っと」

ぎゅ、と右手がシーツを握り締める。
俯いた横顔は、かすかに歪んだ。

「……ひとつ聞きたいんだけど」
『うん』
「これはさ……いつ産まれるとかそういう事は、あんたの意思でどうにかなるものなの?」
『一応、は……』
「で、何?早速この鈍い痛みは――まさか」


『……あの……アヤカにあんまり時間かけるの悪いかと思って……』


だから早めたんだけど――悪気無くそう呟くユイの言葉が終わるか終わらないかのうち、
アヤカはばっと顔を上げて声を張り上げた。

「分かるけど!その気持ちはありがたいけど!
 だけど少しくらい覚悟って言うか心の整理をつける時間をくれても良かったんじゃ!」
『あぅぅ……ごめんなさいぃ!!』




波打つ痛みが間隔を狭めていくのに、さほど時間は掛からなかった。
幸か不幸かそれはアヤカが難しい事を考える暇を与えず、
彼女の頭で理解できたのは、いつしか窓を雨が叩きだした事だけ。
ベッドの上に横たわって呻くアヤカを、ユイは不安げに見つめていた。

「……んん……ッ」
『アヤカ……』

何度目かの強い痛みに、アヤカが顔をしかめた。
ピンク色のネイルがシーツを引きちぎりそうなほど強く掴む。
触れることの出来ないユイがもどかしげにしていると、
アヤカは薄っすらと目を開けてそんなユイの姿を捉えた。

「……やめてよ、あんたまでそんな顔すんの……」
『だって私……』
「そりゃ……洒落になんない痛さだけど……ッ、私がやるって言ったのよ。
 傍にいるあんたがそんな、……不安そうにしてたら……困るのよ」

自分が気丈な性格で良かった、とアヤカは密かに思った。
控えめなユイがせめて泣き出したりしないよう、
考える余裕がまだ自分にはある。
頬に張り付く髪を避けながら、アヤカはまた強く目を閉じた。

身体の奥深いところから湧き上がってくるのは、
まるで全身を殴りつけられているように深く重い痛み。
時を経るごとに強さを増していくその痛みに、何度かアヤカは声を上げた。


「あ……ッ、はぁっ、は、……ああっ!!」
『アヤカ……頑張って、アヤカ……』
「っく……ぅ、痛……!!」

身を二つに引き裂かれる方がまだマシかもしれない。
アヤカはシーツに額を押し付け、滲む涙を誤魔化した。

「は…ッ、あ、……サイアク……!腰が、折れそ……ッ」
『ごめんね……ごめんねアヤカ』
「何がッ……!」
『こんな思いさせてるのに……私、何もしてあげられない……』

「――ばか言ってんじゃ、ないわよ……」


荒い息の中で、アヤカがユイを睨む。
はっとユイが目を見開くと、アヤカはひとつ大きく息を吐き、汗の滲んだ目元でかすかに笑った。


「ユイがしっかりして傍にいてくれなきゃ……なんにも始まらないでしょ……。ばか……」




遠く暗がりの空から降りてくる雨が、窓をただ叩き続ける。

ほのかな明かりだけが灯す部屋の中で、その音は少し、強まって響くようだった。




「あぅ……ッ、んん……!!」

痛みに喉を反らせ、アヤカが苦しげな声を上げる。
くぐもった呻き声は雨音に混じって無人の建物に響き、
傍らに佇むユイの瞼を震わせた。
勘が良いアヤカは呼吸の仕方にどうにかタイミングを計れてはいたものの、
震える喉が吸い込めるのは湿度を増した冷ややかな空気。
痛みに声を上げれば、折角整えた呼吸が乱れるのは容易だった。

「う――……ッ、ぁ……!」
『!アヤカ……』

零れた小さな声と共に、アヤカの足の付け根が温く濡れた。
まだ狭いそこからゆるやかに流れてきたのは薄紅色の羊水で、
自分の身に何が起きたのか把握できずにいるアヤカは濡れた瞼を少し開く。

『破水した……』
「はすい……?」
『もう少しで赤ちゃんが出てこられるのね』

ユイの白い指先が、アヤカの元にできた水溜りに触れた。
そこを辿り、アヤカの太股から内股へ――そして柔らかく隙間を開けている「そこ」にたどり着く。
未だ心持ち狭い。
ユイはその隙間から奥にかすかに見える肉壁に更に指を進めた。

「ユイ……?なにしてるの?」

触れられている実感の無いアヤカには、
仰向けに大きくせり出した腹の向こうでユイが何をしているのか分からない。
ユイは黒髪を揺らし柔らかく微笑む。

『……楽しみに待ってるの』

その笑い方がとても穏やかで、激痛に縛られていたアヤカの心が僅かに放たれる。
こんな彼女の子を宿して、それを送り出そうとすることに、
誇りに似た気持ちが生まれつつある。
厄介な事に巻き込まれたなんて思わない。

これは幸せなことなのだと。



「んッ……!い、ツ……っ!!」

びく、とアヤカの身体がこれまでにない反応を示した。
シーツの上で踏ん張る両脚が震える。
紅潮した頬にいくつも汗の玉が浮かんでいた。

「や…ッ、ああ!痛い痛い……!!」
『アヤカ……アヤカ!』
「ん、くぅ……ちょ、マジで……ッ」

ユイはアヤカの枕元に戻り、苦しむアヤカの手を上から握る。
感触も温度も無いその掌でも、少しでもアヤカの痛みを和らげられるなら。

「はあ、はぁ……ッあああ!!あ―――……ッ!!」
『頑張ってアヤカ、お願い』

あふれ出す痛みの中で、自分の中から下がる気配を感じる。
熱を孕んだ膣を内側から押し広げて外に出ようとする、確かなもの。
アヤカは乱れる呼吸を懸命に整えながら、何度も息んだ。

『ゆっくりで良いよ、アヤカ。波が来たら息んで、治まったら息をすれば良いの』
「言うほど、……簡単じゃな……ッ、あぅ……んっ!!」

痛みに怯え閉じそうになる両脚をどうにか開きながら、
アヤカが声を張り上げる。
どうせ人のいない場所なら、好き勝手にした方が少しは楽だった。
こんなにも声を上げた事なんか、きっと今まで過ごした夜の中だって無い。

痛みに犯され薄い意識の中で、ぼんやりとアヤカは思う。


ああ、こんな声を上げるのはきっと、自分がこうして生まれた時以来なのだ、――と。




最初の陣痛から、もうどれだけ経ったのか。到底思い返す気にもなれない。
アヤカは自分の痛みとユイの存在、そして窓を叩く雨の音だけを確かに感じながら天井を仰いだ。

「……っはー……はー……ッん……」
こく、とアヤカの喉が鳴る。
ユイは開かれたアヤカの足元で黙って「そこ」を見つめていた。

しっとりと羊水で濡れ、薄暗い照明をぬるりと含むアヤカの陰部には、その割れ目から黒髪が見え隠れしていた。
ひくひくと時折痙攣するように動くそこは見ようにはグロテスクで、それでも酷く美しくユイの目には映る。
アヤカが下腹部に力を込めていきむ度、陰部は割れ目を頂点に内側から大きく盛り上がり、張り詰めた薄い紅色を透かして見せた。

「ひっ、い……痛ぁい……!!」
『アヤカ、落ち着いて。もうすぐ出るからね』
「はぁっ、ああっ……」

薄く開いたアヤカの目に、ユイが手招きしているのが映る。
手を伸ばすと、それは自然と自分の陰部に導かれた。
温かく濡れたそこに触れたのは、柔らかな髪の毛。
アヤカの息が一瞬穏やかになって零れ落ちる。

『分かる?』
「……分かるよ……私、ほんとに……産んでるんだ……」
『そうだよ、アヤカ。感じるよね……?』
「うん……ユイの赤ちゃんが、ここに……」

強く張ったそこに微かな恐怖を感じつつも、アヤカは大きく息を吸い込んでそれを振り払った。
考えてみれば、あんなに狭い場所を子供が通るなんて自分には計り知れない事だ。
そりゃ痛いわよね、と今更の苦笑いをひとつして、もう一度力を込める。

「んん――……ッ、う――……!!」

ツ、と一筋の赤が滲み落ちる。
割れ目から覗いていた黒髪は張り詰めた頂点を通過してずるりとその形を露にした。
ぴりぴりとしびれるような痛みをそこに感じてアヤカが腰を浮かすが、ユイはやんわりそれをたしなめる。
あと一息よ、とユイの優しい声が告げると、アヤカの手が再びシーツを掴む。

その時ようやく、アヤカが気付いた。

「……ユイ……?」

白い頬を、伝う一筋の透明な光。
黒い瞳を滲ませてそれはシーツに零れ、あるはずの無い音をぱたりと立てた。

嬉しさとも寂しさとも、どちらともつかない涙の色。


「ユイ……」
『……』
「ちゃんと、見ておきなさいよ」

膨らんだ腹を突き出すように、アヤカが体勢を立て直す。

「あんたの子供なんだから。泣いてる暇なんか、無いんだからね……!」


最後の力を振り絞るようにして、アヤカが強く息む。
子供の頭だけを覗かせたそこが再び膨らみ、ゆっくりと白い肩を排出しだした。
引き寄せられるようにそれは差し出されたユイの両手の中に向かって押し出されてくる。
叫びに似たアヤカの声にあわせ、羊水を溢れさせながら小さな身体が徐々にその形を露にし――。


「んっ、……ぅあ、あああ……ッ!!!」



遠くで轟いた雷鳴に、半ばかき消されたアヤカの絶叫。


それを更に覆ったのは、ひときわ大きな産声だった。




外から叩く雨はいつの間にか弱まっていた。
アヤカは全身を駆けた一瞬の衝撃をまだ余韻に感じながら、
自分の荒い息遣いを耳に呆然とベッドに横たわったままだった。
上下する乳房から零れる白い液体がじわりとシーツを汚していく。
唾液で濡れた唇は少しだけアヤカを妖艶に見せた。

『……アヤカ?』

小さな声がかすかに呼んだ気がした。
アヤカはマスカラで飾った目を二、三度瞬いて、
ユイの姿を視界に捉えた。

「……生きてるのね……私」

掠れた声が返す。
……それを覆い隠すほどの産声が、何故か今頃アヤカの耳に入ってきた。
空耳でなく、それは自分の股の間で確かに声を上げている。
どうにか肘をついて身体を起こすと、それは思ったよりとてもはっきり見えた。

じくじくと痛む陰部から繋がった、太い臍の緒の先。
濡れた身体で懸命に息をしているその小さな子供の姿に、
アヤカは寸前までの長い苦痛を全て忘れ去って目を見開いた。

指を伸ばすと、不思議な事に、そのしっとりとした黒髪の感触が取れた。

「……あぁ……」

感嘆の息を吐くアヤカの表情が徐々に緩んでいく。
微笑みに変わる目元には、先刻とは違う涙が滲む。
両手でそっと包み込み、ゆっくりと胸元に抱き寄せた身体は、
確かにアヤカの掌に温かなその存在を示していた。

「ユイに似てる……」
『……ん』
「可愛い……ねえ、ユイ。男の子だよ」
『アヤカ……ぁ』

気付けば、ユイの頬を幾筋も涙が流れ零れ落ちていた。
きらきらと光の粒になって落ちていくそれは眩しいほど白く、
泣き顔のユイを一層綺麗に見せた。
アヤカは少し困ったように笑い、子供を抱いて空いた右手をユイに向かって伸ばす。
真正面から子供を覗き込んでいたユイに、
アヤカは確かに触れた――気がした。

「泣かないでよ、ユイ。馬鹿だね。
 泣いてたら、子供の顔、見えないでしょ」
『アヤカ、ありがとう……ごめんね……』
「分かったから、……ね、ユイ」

ごめんね、の意味を、アヤカは分かっていた。


「約束」は「ここまで」だからだ。


肩口に抱き寄せたユイの体が、熱を孕んでいく。
同時に胸に抱いた子供も同じように白い光を纏い、
それはアヤカの前で「あの」光景を作り出した。




ユイの手の中に生まれてくる、白い光の球。
渦を巻いてそれはかすかな風を起こした。

『……ごめんね、アヤカ。
 本当は私、アヤカとこの子と、もう少し一緒にいたい……。
 でも、残されてる時間はもう少ないの……』

最後の「未練」を叶えたユイに、もうこの世にいる理由はない。
ユイの意思に反して、状況は残酷にも動いた。

「良いよ。ユイ」

アヤカの手から、確かに重みを感じさせた小さな身体がふわりと浮き、
さらさらと光の粒になってユイの手の中の光に溶けていく。
一粒さえも惜しみ、ユイはいとおしげにその様を見つめていた。
段々と浄化されていくユイの魂は、アヤカの目に見てもはっきり分かるほど、
白く美しく澄んでやがて透明に近くなる。

不思議と寂しくはなかった。
アヤカは自分の身を呈して産み落とした子が、
ユイの魂の中で生き続けることを十分分かっていたし、
今をどれだけユイが待ち望んでいたかも知っていた。

やがて子供をすっかり飲み込むと、魂はユイの胸元にゆっくり戻されていく。

自由になった両腕を、ユイはアヤカに向かって真っ直ぐ伸ばした。

もの言いたげな無言の瞳に、アヤカが静かに返す。


「さよならだね?ユイ」



ユイ自身も、もう残り少なかった。
縛り付けていたものが解け向こうの世界へと誘われるユイを、
アヤカは最後まで目に焼き付けようと懸命に笑う。
艶やかな黒髪も、澄んだ瞳も、柔らかな頬も、甘い唇も、全てを。

「ユイ」

ここに来なければ呼ぶはずのなかった、その名前すら愛しく。


不意に、ユイはアヤカに向かって駆け出し、彼女の身体を思い切り抱きしめた。
勿論触れることは出来ないその愛しい相手を、ユイはそれでも力いっぱい抱く。
アヤカの耳元で、何度も涙を飲む息遣いが聞こえた。
さよなら、と言えない健気なユイの、それは別れの言葉。


アヤカはそっと身体を揺らし

別れ際、ユイの赤い唇にキスをした。




『……ありがとう、アヤカ』




「……んん……」


瞼を透かす白い光で、アヤカは目を覚ました。

――自分が眠っていたことに気付くまでだいぶ時間を要して、
それからアヤカはぼんやりと自分の居る場所と状況を思い返す。
汚れたベッドの上で、木造の天井を仰ぐ。
窓の外は、思い返した頃より酷く明るかった。

「……夢……?」

零れ落ちるようにした発した声は、かすれていた。
疑いながら自分の腹に触れ、そこから下がって下着の中へと手を導く。
触れた瞬間、そこから痛みが走ってアヤカは思わず声を上げた。

「てて……何よ……夢でもないんじゃん……」


今はいつで、何時だろう。
漠然とした感覚の中で、ふと床に落ちている携帯には着信を知らせるランプ。
夢で無いのなら、もう何十件と着信やメールが入っているのかもしれない。
きっと友達の間では、自分は嵐の中で行方不明になっているはずだから。

手にとって確認しようと、右手を床に向かって伸ばしたときだった。


ぽた、と自分の掌から小さな何かが落ちた。



「なに……?」

目をやれば、それは茶色く皺の寄った――


「……臍の……緒?」


確か自分の母親から見せてもらったそれに良く似ている。
アヤカは半信半疑でそれを手に取り、まじまじと見つめる。
短いそれはところどころに浅黒く染みが滲んでいて、
よくよく見ても何の変哲もないもの。

暫くそれを眺め、やがてアヤカは小さく噴出した。

「……ばっかじゃないの……ユイってば……。
 何で臍の緒なのよ。選択おかしいっての」

段々可笑しくなってきて、アヤカはそれを握り締めたまま懸命に笑を堪えた。
そこに「いたのかもしれない」黒髪の彼女を思い出して。
こまって慌てるユイの表情を思い浮かべ、肩を震わせる。


その右手を下腹にそっと添える。

もうそこには何も感じなかった。


それでも、アヤカはどことなく得た満足感を噛み締め、
ベッドから降りて床を踏みしめた。
埃に汚れた服を払い、髪を手櫛でとかし、少しだけ滲んだマスカラを気にする。
残された「置き土産」を失くさないようにポーチにしまうと、
携帯を拾い上げて溢れそうなメールボックスを開いた。
心配する文書の羅列と、表示された日付を確認する。

アヤカは着信履歴を探って、通話ボタンを押した。


「――もしもし?私。うん。
 ごめんね、迷ってさ……ん、無事だよ元気元気。ごめんってば、今から行くからここからの場所……」


文句に似た怒涛のような声が携帯電話の向こうから聞こえてくる。
アヤカはロビーの地図と電話の会話を照らし合わせ、何度も何度も「ごめんね」を繰り返す。



そうしてドアを押し開いて飛び出した向こうには、
広く晴れ渡った青空が広がっていた。






end


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